Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
春樹を乗せたタクシーは、邸宅と屋敷が連なる一帯を行きつ戻りつした。高岡の表札を見つけたころには、所持金を心配しなければならない料金になっていた。
門扉の前に立つと同時に強い照明を浴びる。防犯ライトのセンサーに反応したようだ。ライトに追われて門から離れ、以前来たときに鵜飼夫人が出てきた勝手口に向かった。
くぐらなくては入れないほど小さな戸なら鍵がかかっていないかもしれない──はずはなく、ライトに照らされ、なおかつ引き戸はかたりともしなかった。力まかせに動かせばすき間くらいできると思い、体重をかけて押してみる。
引き戸の上にある防犯カメラが、半球形のカバーの中で動いた気がした。大急ぎで引き戸から離れる。
時おりライトに驚かされながら別邸を一周した。高岡は生活の拠点ではないところに何も届けさせたくないのか、郵便受けも新聞受けも見当たらない。
オートロックに阻まれたくなくて来たのに、これだ。受け取り口がないのではどうしようもない。
ハンカチを縛って庭に投げ入れてみようか。こんもりしたツツジの茂みに入りそうで怖い。鍵をぞんざいに扱うことにも抵抗がある。
(鵜飼さんの家、この近くかな)
高岡の別邸を管理する鵜飼夫人は、以前会ったとき普段着だった。広い邸宅をきれいに保つには頻繁に来る必要があるはずだ。近くに住んでいると成瀬も言っていたし、鵜飼夫人に合鍵を渡してしまおう。
すぐ見つかると思い、適当に歩き始めた。どの角をどちらに曲がったかさえ気にせずに、鵜飼夫人の家を探した。
ひたいから流れる汗を拭う。きょろきょろしすぎて首が痛い。
春樹は息をつき、膝に手を当てて身をかがめた。風はあっても夏の夜だ。蒸された空気が疲れを倍増させる。
脇を高級車が通る。車道にはみ出さないように歩く不審者を、家々のライトが警戒する。
車や閃光を避けるうちに、記憶にない場所に出てしまった。洋館ふうの屋敷が面したT字路は、正真正銘初めて見るところだ。来た道を戻ってみても、夜の知らない住宅街があるだけだった。
財布には小銭しか残っていない。前に来たときもタクシーだったため、駅にたどり着けるか心配になってきた。
(今はとにかく鵜飼さんの家だ)
かなり歩いて洋館付きT字路にふたたび迎えられる。同じところを歩いていたとわかり、長いため息をついた。
T字路を曲がって道なりに歩いてみた。ゆるやかな勾配に差しかかり、逆らわずに進むと大きな建物の前に出た。
十字架があるから教会だろう。長い塀に沿い、防犯灯が届かない箇所を見つけた。塀にもたれて座ると、もう動きたくなくなった。あちこちでセミが鳴いている。
安定剤が抜けないのか歩き疲れたためか、膝を抱えるなり、まぶたが下りた。
眠ってしまったようだ。
聞き覚えのある靴音がする。夢か本当のことなのか判別できない。目を開けるのも億劫で、一定のリズムを保つ音を聞いていた。人のあとを歩く音ではない。常に誰かの前に立って突き進んでいく音だ。
この音を出す男を知っている。いまいましい男で、嘲笑を浮かべて振り返る男だ。知っている。よく、知っている。
キザな革靴が視界に入った。
「高岡……さん」
仰いだ男の後ろに満月があった。
薄墨色の雲が薄くかかっているが、調教師が分離帯でしくじった夜と同じ形の月だった。
「迷子の仔犬ちゃん。何をしにきた」
返したいものがあったから。そう言うつもりだった。つもりだったのに、口から出てきたのは違う言葉だった。
「この間は、ごめんなさい」
高岡は眉ひとつ動かさない。ごめんも聞き飽きたと言われそうで、いたたまれなくなった。
「本当に、ごめんなさい。帰ります」
深々と頭を下げて教会の塀沿いに歩き出すと、高岡が面倒そうに声をかけてきた。
「待て」
立ちどまってすぐ、疑問が頭をもたげた。
仕事用のラフなスーツを着ている高岡が、どうしてここにいる?
「来るなら来ると連絡しろ。俺も常にこれを見るとは限らない」
振り向いた目がとらえたものは、高岡の携帯電話だった。開いた状態にして見せてくる。
画面には別邸の引き戸と格闘する春樹が映っていた。
「あの邸に金目のものはない。盗まれて困るものはないが、予定外の来訪は好まん。決められた日時以外に何者かが出入り口に触れると、警告の知らせがくるようにしてある」
成瀬が避難所だと言っていたのは、外れていなかったようだ。広いだけの邸宅でも高岡には特別な場所なのだ。
侵入者に脅かされれば飛んでくる場所に、軽々しく来てしまった。
「ごめんなさい……」
うんざりしたときのため息が聞こえた。首をすくめる春樹の前で、高岡がスーツの内に手を入れる。
「今度は何への謝罪だ」
「高岡さんが大切にしてるところに、断りなく来ました」
美しい男の顔がライターの炎ではっきりと見える。汗をかいているようで、こめかみが濡れていた。
「もしかして……僕を捜したの……?」
見まわしてみても高岡の愛車がない。歩いて、あるいは走って捜したというのか。
煙が目にしみるのか、高岡は目を細めて十字架を見上げるだけだ。
「高岡さ」
「久しぶりに徒歩運動をしただけだ。俺のことより、今日は水曜だと思うが。塾はどうした」
春樹の部屋にローテーブルを届けさせる際に、塾の曜日を稲見に訊いたのだろう。春樹は下を向き、消え入りそうな声で答えた。
「帰るように言われました」
「原因は何だ」
「ぼうっとしてたから……やる気がないなら来なくていいって……」
「正当な理由だ。来週はぼうっとするな」
舗道に煙草が捨てられる。キリスト教にまつわる絵が描かれたタイルに落ちた煙草を、高岡の靴が踏む。
罰当たりなことを平然とやってのける高岡が、夜道を見ながらそっけなく言った。
「泊まっていけ」
口を開けて高岡を見る。黒い雲が風で動き、真ん丸の月に不吉な墨絵を描いた。
「まだ仕事がある。とって喰いやしない」
「だめです」
安い犬の不服従に、高岡の眼光がきついものになる。
「大切な家に僕を入れたりしたらだめです!」
ひと息に言って走り出した。体が重くて全然進まない。高岡につかまるのは転ぶより簡単だった。
「だめかどうかは俺が判断する」
「ど、どこかに、写真を撮る人がいるかも」
「そう思うなら言うことを聞け。外でぐずるな」
自分は横断歩道の中央で人を抱きしめておいて、この言い草だ。春樹は呆れ半分、あきらめ半分で付き従った。
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