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第一話・焔 第四章・4


 塾に着いて一時間も経たないうちに、帰るように言われた。
 春樹から分数のプリントを取り上げたのは、塾の経営者兼講師だった。
「やる気がないなら来なくてよろしい」
 講師は顔を赤くするでも、大声を出すでもなかった。呆けた春樹を外に連れていき、静かに続ける。
「勉強を続ける気があるなら来週来なさい。来なくても適正な睡眠時間を確保すること」
 塾では一度もあくびをしていない。納得がいかなくて、返事をせずに講師を見た。
「高校生になって分数を習うのに、何も表に出さないとはどういうことだ。先週のきみには恥ずかしさがあった。今日のきみには何もない。今度来たときもどんよりした目なら、上がらせないからそのつもりで」
 言い訳をする間も与えられず、鼻先でドアを閉められる。
 平屋の民家を改装した塾のため、窓から何人かの生徒が見ている。春樹は回れ右をして、小走りで塾から離れた。




 街灯の柱に手を置く。苦しい息で見上げた光源はバス停をほのかに浮かび上がらせ、羽虫や蛾などを集めていた。
 りん粉なのか、埃なのか、小さな粒々がきらきら光りながら、高いところから羽毛を落としたときのように落ちてくる。
 安定剤の倦怠感が抜けないまま光る粒子を見ていると、初めて塾に来た日のことを思い出した。

 染めた髪をとかし、耳のピアスを外して入室した生徒がいた。
 外見を整える少年の顔は真剣だった。稲見と春樹の視線を浴びて頬を紅潮させながら、丁寧に髪を撫でつけていた。
 ここを追われたら終わりだ。そんな、覚悟にも似た気概が感じられた。
 勉強を嫌うことは簡単だ。だが、子どもの多くは勉強が権利であると気づいていない。
 派手で自己主張に満ちた姿を好む少年も、春樹と同じように帰されたことがあるのだと想像するのは難しくなかった。
 ピアスを外して髪型をおとなしくさせることで、学問への、自分の未来への忠誠心を表したのだろう。

 金持ちに見初められて愛人になる。愛人契約が切れれば何の援助もなしに社会に出なくてはならないという事実を、どこかで見ないようにしていなかっただろうか。
 塾での行動を考えてぞっとした。冷酷な社が学びの場を与えているのに、春樹が春樹を追い出した。
 苦痛はなくても、していることは自殺と同じだ。自己への関心を失い、見捨てようとしたのだ。
 街灯に近づきすぎた蛾がせわしなく羽を動かした。小さな生きものが降らせた細かな粉が宙に舞う。
 蛾は灯りと闇の間をよたよたと飛んでから、らせんを描いて危険な光に導かれていく。
 ほかに光を見つけられないのだろうか。月明かりしかない時代だったら、空の果てまで行くのだろうか。
 春樹にも逃れられない光がある。サーチライト並みの光源が。
 包丁で喉を突こうとした夜、光る目をした男がとめに入った。自分の右手を刃物に押しつけて引き切るとき、強い光を宿す瞳には恐怖心があった。苦悶の表情をこの目で見ている。春樹は修羅場をくぐり抜けてきた人間ではない。十六年間温室で育った少年を従わせるだけなら、暴力でねじ伏せればいい。
 百人の調教師がいたとして、そのうち何人があんな方法を選ぶ?
 安直ではなかった。飴と鞭などという計算でもない。
 何が何でもやめさせる、死なせはしないという、人としての意地だけがあった。
 優しさのカケラも見せない顔で構わないでほしい。
 あんなふうにされたら、誰だって心が揺さぶられる。嫌いではなくなってしまう。
「……返さないと」
 バスは先ほど出たばかりのようで、三十分待たなくてはならない。時間は決心を鈍らせる。
 春樹はタクシーが拾える通りに走った。


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