Cufflinks

第一話・焔 第四章・4


 リビングの時計が十一時を回ったころだった。
 受付カウンターの女性にノーと言えないことを後悔しても遅い。玄関ドアを通して靴音が聞こえたため、インターフォンが改めて鳴る前にドアを開けた。
「……どうぞ」
 高岡の前髪は乱れていた。眼光もきつい。気圧される春樹の前を高岡が無言で歩く。春樹は外国製の靴を揃えた。
 脱いだ靴を揃えない高岡は初めて見た。それほど怒っているとわかり、胃がちぢこまる。
 キッチンに立った高岡は水道水をがぶ飲みした。手の甲で口もとを乱雑に拭う。すべてがらしくない。変わらないのは目の光だけだ。
 光る目が春樹をとらえる。春樹は無意識に一歩下がった。
「葉山から聞いた。笙子と何を話した」
 用意しておいた答えも、いざ答えようとするとスムーズに出てこない。
「ゆ、ゆめ。夢の話、です」
「夢?」
 男らしい眉が跳ね上がる。春樹は自分の足もとを見ながら、とつとつと話した。
「怖い夢をみるから……誰かに言いたかったみたいです。夢だからとりとめのないことなんですけど、話したらほっとしてました。葉山の人や高岡さんに怖いと言うと、心配かけると思ったんじゃないでしょうか」
 でまかせもいいところだ。口裏を合わせていないのだから、いつバレてもおかしくない。
 ダイニングの椅子が引かれる音がした。腰を下ろした高岡がぶっきらぼうに言う。
「突っ立っているな。座れ」
「は、はい」
 向かい側の椅子に座った。高岡は両肘をテーブルにつき、組んだ両手にひたいを押し当てている。異母妹をどれだけ案じたか、丸めた背中が語っていた。
「……ごめんなさい」
 高岡が顔を上げる。全身から不機嫌な色がにじんでいた。
「やっぱり高岡さんに知らせるべきでした。ごめんなさい」
「あれが勝手にしたことだ。何故お前が謝る」
 声が恐ろしく冷ややかだった。この声なら部屋の温度を二、三度下げられる。
「た、高岡さん、心配そうだから」
 笙子より濃い色の瞳が春樹を見据える。荒々しい感情を隠そうとしない目だった。眉間のしわも深い。
「妹は十七だ。心配などしていない」
 髪も整えず靴は脱ぎっぱなし。水道水を飢えた人のように飲んでおいて、心配していないもないものだ。
 だいたい、妹をあれとは何だ。かけがえのない肉親ではないか。
 春樹の母は写真立てから出てこない。高岡の私情でも、笙子をないがしろにすることは許せなかった。
「家族を心配することをごまかさないでください。笙子さんをあれって言うのも、やめたほうがいいと思います」
 高岡が椅子を蹴って立ち上がる。何か口走ってから後悔するのが常ではあるが、今ほどしまったと思ったことはない。
 躊躇なく胸ぐらをつかまれた。とっさに目をきつくつぶる。頬に受けるはずの衝撃がこない。
 薄目を開けて見た高岡は、瞳を左右に揺らしていた。
(この目、見たことある)
 灰色の瞳が揺れたのはほんの一瞬だった。
「俺が妹をあれと呼ぶとお前が不幸になるのか」
「そんな、そんなことは」
 すごい力で立たされる。椅子の背をつかもうとしたがかなわず、フローリングの床をもつれた足が滑った。
 カウチソファの前に突き飛ばされ、はずみで補助テーブルが倒れる。高岡は明らかに冷静さを欠いていた。
「や、ぐ……!」
 野蛮な調教師は悪鬼の形相で春樹にまたがり、両手で春樹の首を絞めてきた。
 殴られるならわかるし我慢できる。激昂させてしまったのだ。レイプされても文句は言えないのかもしれない。
 でもこれは違う。罰ではない。荒れ狂った怒りだ。
「ひ……う……」
 力が強すぎる。目の奥で火花が散り、恐怖に全身が押しつぶされそうになった。

 殺される────!!

 右手を目いっぱい伸ばした。指先に補助テーブルの支柱が触れる。
 しっかり握り、床と平行に投げた。
 派手な金属音が響く。ダイニングの椅子にぶつかった補助テーブルが床を転がり、高岡の両手が離れた。
「ヒュ……ッ、ゴホッ!」
 突然入ってきた空気に喉も肺も悲鳴をあげた。口を押さえて激しく咳きこむ。
 高岡が春樹の上からどき、春樹の体を横向きにさせた。
「楽な姿勢でいろ」
「ひ……!」
「背中をさするだけだ」
 びくつく肩に手が置かれる。もう一方の手が本当に背中をさすった。
 何が高岡を怒らせたのだろう。私生活に踏み込んだことへの罰にしては、取り乱しすぎている。
 笙子の上京を知らせないばか犬にうんざりした? それならお得意の皮肉を言えばいい。
 妹をあれと呼ぶことをなじったからかもしれない。
 なじった直後、高岡は立ち上がり春樹の胸ぐらをつかんだ。喧嘩でもするときのように。
 そして瞳を揺らした。


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