Cufflinks
第一話・焔 第四章・4
以前住んでいたマンション近くの公園でタクシーを降りた。
笙子を今の住まいに上げるわけにはいかない。理由があって部屋に入れないと言っても、笙子はうなずくだけだ。
ベンチに座る笙子はきれいだった。膝下までのワンピースが女性的なラインを描く。裾から伸びる脚は細くて白い。
何もない空間をじっと見ていなければ、多くの人が完璧な美少女だと称えるだろう。
「何が好きかわからなかったから紅茶にしたよ」
自販機で買った缶飲料を渡すとき、陶器のような指が冷たく感じた。タクシーの冷房で冷えたのだろうか。
「笙子さん。気分悪いの?」
タクシーに乗ってから笙子はほとんど口をきいていない。心ここにあらずといった様子で、頭を前後に揺すり、小さな音を拾うときのように眉根を寄せたりしている。
大気から未知の情報を得ようとでもしている笙子を、犬の散歩をする人が否定的な目で見ていった。
鈍い音がして振動が伝わった。笙子の手から落ちた缶がベンチの端へ転がる。
弾かれたように笙子の顔が上がり、空を凝視したまま春樹の手を強くつかんだ。
「笙子さん」
ぎょっとした春樹が息をのむ。
ガラス細工に似た目が少しも動いていない。まばたきもしない。
本物の西洋人形になってしまったようで、春樹の背中がぞくりとした。
「怯えないで。うるさいかもしれないけど、我慢して」
笙子の言葉に被さるように、遠くから祭り囃子(まつりばやし)が聞こえた。夏と秋には小学校に近い神社で小規模な祭りがあるが、夏の祭りには早いしここまで聞こえることはない。
目で見える範囲には雅楽を奏でるものはないのに、房状の鈴が何十本も振られるような音がする。
神前で巫女が舞うときに使いそうな鈴の音が、頭の中に大音量で響くのだ。
ひときわ大きな音で鈴が鳴った。頭痛がして目をつぶったとき、まぶたの裏に男のシルエットが浮かんだ。
(井ノ上──?!)
不協和音にも思える鈴の音が渦巻くなか、井ノ上の姿が鮮明になる。
短い髪の下にある顔は痩せていた。軍靴に似た靴を履いている。
井ノ上が目を開ける。ホテルの前で襲われた夜とは違った。あの夜、春樹を見下ろした井ノ上の目をじっくり見たわけではない。一重か二重かも覚えていない。にもかかわらず、何かが違う。生まれたときから感情がないような目だ。
「あ……!」
井ノ上が進む先には金髪の暴漢がいた。新田を殴ったチンピラだ。井ノ上を認め、面倒そうに伸びをする。起き抜けのようだ。井ノ上が一礼して近づく。暴漢があくびをしたとき、井ノ上の手が軍靴に伸びた。
スラッと抜かれた刃物が光り、目の前が一面の真紅になった。
春樹の手を放した笙子がベンチに両手をついた。華奢な背中と肩が上下する。黒髪の間からのぞく顔が青白い。
「笙子さん! い、今の」
今の映像は何だとは言えなかった。笙子は易々と他人の好物を言い当てる。初めて立つキッチンでも昆布や土鍋を苦もなく見つける。人知の及ばない世界で生き、感覚を優先させて話すところがある。それでも、面と向かって得体の知れない映像のからくりを明かせ、などとは言えない。
春樹は笙子の落とした缶飲料を拾った。そっと手渡すと、笙子は小さな声でありがとうと言った。
「最近、何度も夢にみるの……ふたりとも知らない人……これから起こることなのか、もう起きたことかもわからない」
ワンピースの裾を払って座りなおし、言葉を続ける。
「今の夢をみるとアキラから電話があった。アキラか、アキラの近くにいる人に関係があると思って……でも、アキラに話してはいけない気がしたの。それで……」
「今の映像を伝えるためにひとりで来たの? 高岡さんに内緒ってことは、葉山の人にも言ってないんじゃ」
白い顔がうなずく。春樹は眉間にしわが寄るのを感じた。
何ごともなく会えたからよかったものの、何かあったらどうするつもりだったのだ。
「高岡さんの近くにいる人っていっても、あの人は色んな人と会うし……はっきりしないのに来たら、みんな心配するよ」
「大丈夫。一番近くにいる人は、わかってたから」
「え? なに?」
頭から残響が消える。ぐわん、とするめまいに似たゆらぎが生じ、笙子の肉声が聞きとれなかった。
「この紅茶、もらっていい?」
「いいけど……ぬるくなっちゃったんじゃない? 新しいの買うよ」
「ううん。これがいい」
微笑む笙子が立ち上がる。映像を伝えてすっきりしたのか、頬に色が戻り始めていた。
数歩進んだ笙子が振り返り、歌うように言った。
「冬の湖面。雪の原野を走る──オオカミの夢」
息がとまりそうになった。笙子の大きな目が春樹を見つめる。
「あの夢、わたしもみた。素直になって……ハルキ」
「なっ」
高岡の別邸でみた夢の内容は誰にも話していない。わたしもみたなどと、さすがに理解するのは無理だ。
風があらゆるものをなびかせる。笙子は髪を押さえて遠くを見た。
「もう帰らないと。駅はどっち?」
高岡に連絡するのが筋だとはわかっているが、あの双眸が思いとどまらせた。
黙って上京した笙子を高岡はきっと叱る。笙子が叱責されるのは理不尽に感じた。
あんな恐ろしい夢、誰も好きでみたくないだろう。
「駅まで送るよ。でもその前に、葉山に電話して」
少量の小銭しかない笙子に携帯電話を渡す。春樹は空を仰いだ。西にある雲が黄金色に光っている。あと一時間もすれば薄いピンクかオレンジになるだろう。
井ノ上が背負う真っ赤な背景を思い出し、かぶりを振った。
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