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第一話・焔 第四章・3
日曜。
空に夜の色が混じるころ、稲見の車から降りた。
「部屋に入るまではお断りできるから、よく考えて……」
「決めたことです。ここまで来て意気地がないと思われては社の恥です」
稲見が迎えにきてから今まで、このやり取りが続いていた。稲見の提案も春樹の答えも、変わることはなかった。
エレベーターホールへの順路を、ため息をつく稲見と進む。春樹は頭の中で数件の店名を繰り返していた。
部屋に入れば勇次が絶対的に有利だ。薬物を自由に入手でき、使うことに抵抗がない男でもある。
新田と終わっても仕方がないと思ったときとは違う。高岡に教えられた避難先を、数件に絞って暗記してきた。
今夜のホテルは須堂が利用したところだ。メインロビーを斜めに歩く。勇次は今日になって、稲見を入れて三人で会いたいと言ってきたとのことだった。
「異例中の異例だよ。ほとんどのお客様は、ご自分の顔を社員に見せたくないものだから」
今回は既存の客を通した紹介であり、今日の連絡も客を間に入れてのものだった。ひとりで春樹を尾行した勇次だ。自分の遊び場を確立するためには、関係者の顔を知らないと気がすまないのかもしれない。
服装にこだわる勇次のためだろう、稲見も上質そうな生地のスーツを着ていた。
フロントの手前、エスカレーター脇で稲見が立ちどまる。ラウンジを兼ねたカフェの案内人が近づいてきた。
先に来て待つ勇次のもとへ、覚悟と共に向かった。
カフェの床は木製だった。靴へのあたりがやわらかく、耳障りな音がしない。
吹き抜け天井に巨大なシャンデリアが輝くメインロビーに面しているのに、可愛い、家庭的な空間だった。ロビーから見るとエスカレーターの向こうになる。観葉植物が目隠しに置いてあることもあり、須堂とのときはここにカフェがあると気づかなかった。素性のわからない須堂と会うことが怖く、ホテルの探検どころではなかったのだけれど。
挨拶を交わした勇次と稲見がソファに座る。名刺交換までしていた。
「稲見さんはハルキくんが部屋にいる間、どうされてます? 食事やお煙草ですか?」
突然の、歯に衣着せぬ質問に稲見が固まった。勇次は甘いマスクで微笑んでいる。
「食事はしません。煙草は……少々」
「そうですか。喫煙可の部屋にしてよかった」
面食らう稲見の前にメモ用紙が置かれる。印刷されたホテル名の上に、三つの文字列が書かれてあった。
「僕が使う部屋と、稲見さんに使っていただく部屋、僕の携帯電話の番号です」
稲見はますます事態がのみ込めないようで、まばたきもせずに勇次を見た。
「車や喫茶店では足も伸ばせないでしょう。寄りたいところがあるなら無理にとは言いませんが、よければお使いください。ルームサービスもご自由に」
「三浦様、正規の料金には含まれないことですので」
「うちは弱小です。吹けば飛ぶようなところです。御社とのご縁も薄い。応じていただいたことへのお礼ですよ」
勇次は笑みを絶やさなかった。硬い表情をすることなく、目を細めている。
これが勇次のやり方なのだ。知らないところから社員に監視されるのが嫌でもあるのだろう。
ざっくばらんにやろうぜ。
そんな声が聞こえてきそうな微笑みであり、脚の組み方であり、首の傾け方だった。
「大変もったいないことではございますが、お言葉に甘えて……」
あと一歩遅ければ勇次の笑みが消えそうなところで稲見が言い、場がおさまった。退き際はわかっているようだ。
勇次が春樹を見る。わずかに癖のある髪はきれいにすかれ、ノーネクタイのスーツ姿も安っぽくない。シャツに入れた濃い色のスカーフが、はっきりした目鼻立ちを引き立てていた。
壬に選んでもらった服を、どうしても意識してしまう。カフスボタンのスカイブルーが浮いていないだろうか。
「初めまして、ハルキくん。素敵な服だね。よく似合っている」
「あ、ありがとうございます」
稲見の前では初対面を装うとわかっていた。実際にそう振る舞うと、思っていた以上に緊張する。
緊張の理由は芝居だけではない。勇次の妙な気遣いにもあった。
一介の社員に休憩用の部屋を与え、自分の携帯電話番号も知らせるなど、そうあることではないだろう。
同じ建物に社員がいて、社員は乱暴な客と容易に連絡をとれる状態にある。商品にとっては大きな安心材料だ。
「それではお洒落な服を、ゆっくり見させてもらおうかな」
スタートの合図も、勇次らしく軽いものだった。フロントの前で稲見と別れてエレベーターホールに向かう。
まだ視界に稲見がいるのに、強引に腕を組まされた。
「あの、しゃ、社員さんが」
「気にするなよ、わんちゃん。めかしこんできてくれたんだ。触らせろ」
他の人に「わんちゃん」が聞こえたらと思う間も与えられない。
服装に心を配ったので気をよくしたのだろうか。南欧か……アフリカのリゾート地が似合いそうな陽気な男が、男娼との時間を楽しんでいる。
エレベーターを降りて廊下を歩く。薬物やプレイ内容に警戒しても、勇次への嫌悪感は不思議とない。
一度は放尿された男なのに、組んだ腕が少しずつ熱くなった。
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