Cufflinks
第一話・焔 第四章・3
今夜の部屋は高層階には位置していなかった。
浴室がガラス張りなのは同じだ。洗面所とトイレまで、ひと目で見通せる。ライティングデスク上の、パソコンを兼ねた液晶テレビが小さい。ベッドはツインで、リクライニングチェアはなかった。
デスクにはインターネットの使い方を書いたパンフレットがある。ビジネス向けの部屋なのかもしれない。
「こっち来いよ」
窓辺に置かれたふたり掛けのソファに座る。近い距離で襟から靴まで、舐めるように見られた。
好色というより、馬子にも衣装とでも言いたげな顔つきだった。
「いい見立てだな。どこで買った?」
「みず……」
正直に言いかけ、口を閉じる。こいつは力のあるサディストだ。不用意に誰かの名を出したくない。
どう答えるべきか考えた、わずかな隙だった。
蚊がとまったときに叩くような音がして、左の頬がわずかに痛んだ。
「隠すなら何も言うな。中途半端にやめるのは、一番嫌いな答え方だ」
脳が用意した謝罪の言葉を、喉に力を入れてせき止めた。ここで謝れば本格的に殴られる。
何も言わず、抵抗の意思がないと示すために膝で手を揃えた。
「意外に学習能力があるんだな、わんちゃん」
読みは外れなかったようだ。ほっとした春樹のあごを勇次がとる。
「壬和幸。十代のころは立ちんぼのウリ専だった。一度酒を飲んだが、目がおっかなかったな。あれは底を見た目だ。なりの割に度胸があるやつだった」
呼吸がとまった。どこを見ていいのかわからない。頭の中だけがカラカラ動く。
両頬を片手でつかまれた。恐怖で目をつぶりそうになると、おかしそうに笑われた。
「顔に出すなってのは、無理そうだな。時間はある。説明してやるよ」
伊達男が立ち上がった。冷蔵庫から出した缶ビールを両手に持ち、明るく訊かれる。
「わんちゃん、ビール飲めるか?」
「いいえっ」
「じゃ、練習だ。飲め」
混乱させるものが薬物とは限らない。アルコールを入れた体が焔に乗っ取られたら、最悪の事態しか予想できない。
正面切って頼んでも許す男ではない。何かあったはずだ。高岡が手本として示したものが。
伊勢原に凌辱された日、客の飲酒をとめる方法を見せてくれた。あれは客からアルコールを取りあげるものだった。今は自分が飲まないようにしなくてはならない。
缶ビールが小さなテーブルに置かれる。腹を括ってひと口だけ飲み、すぐに缶を戻した。
「何のつもりだ。客と飲んでるんだぞ」
勇次の声に厳しさがない。苛立ちもないようだ。缶の端から見える口もとが笑っている。
(試してるのか。僕がどう切り抜けるか)
目を伏せて深く腰掛けた。自分で自分の二の腕を抱き、体が熱いと思わせる。
吐息に混ぜ込むようにして、男娼の意地を言ってみた。
「……あなたに指名されて、複雑でした」
飲む手を休めた勇次が、脚を組みなおした。
「怖い。でも、断りたくなかった。服を選ぶの……少し、楽しかったんです」
膝頭を勇次の脚に押しつける。手もずらし、指の背が勇次の腿に触れるようにした。
「あなたのリズム、体が覚えています。お酒に酔ったら、自由な風みたいなものに翻弄されなくなってしまう。そんなの嫌です。酔って怖さを紛らせるのは────もっと嫌です」
二重まぶたの、大きな目に見つめられた。値踏みをするものではない。
平手打ちか笑いか。一か八かの勝負は、鼻唄を歌う勇次に手を引かれるという結果になった。
次のページへ