Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


 何かの蓋を開けた感触がした。いい匂いが鼻をくすぐる。
「……弁当……?」
 春樹の右手は仕出し弁当の蓋を持っており、左手は容器を押さえていた。
 弁当箱の下にガラス板がある。透明な板はテーブルの天板のようだ。透けて見える脚は自分のもので、制服に似たシルエットのパンツを身につけている。スリッパも履いていた。
 視界がクリアになる。弁当の向こうに配達用の保温袋、左側に長方形の封筒だ。
 ホテルのエンブレムが箔押しされた封筒には見覚えがあった。
 今日、誰かと、このエンブレムを誇るホテルで会っていた。五十歳くらいの男で、セックスをしたと思う。
 封筒には二十万円の現金が入っていた。紙幣はすべて新札だった。
「…………塔崎か」
 肌を合わせた相手の名前は思い出せたものの、詳細がはっきりしない。
 ここは春樹の部屋で、ダイニングの椅子に腰掛けているのはわかる。弁当を食べようとしていたようだ。時計は夜の六時を回っていた。テーブルの端に新聞紙がある。
 立ち上がり、一面の日付けを見た。すべての紙面の隅にある、今日という日を確認した。
「六月十三日、土曜日」
 繰り返して口に出した。自分の氏名や通っている学校の校名も言ってみる。
 自分の体を提供したことを忘れ、無意識の状態で弁当を食べようとしていた。
 こういう空白時間は前にも経験した。三浦兄弟にペントハウスで犯された夜だ。
 つまり春樹は、焔の溶鉱炉に落ちたのだ。
 寒気がして、肩や腕をさすった。紳士的な相手なら大丈夫だと思っていたのに。客が塔崎でよかった。三浦のように面白がって痛めつけることはしない。
 今日の日付けをつぶやくうちに、二度目が終わってからの映像が断片的に浮かんできた。

 シャワーは自力で浴びた。服も自分で着た。部屋を出る前にキスをした。頬にも、手の甲にもキスを受けた。
 塔崎はコンシェルジュの案内を断り、ふたりだけでエレベーターに乗った。
 誰もいない密室で腰に手を回された。そして何かを言われた。

 下へ向かうエレベーター内で、上客である塔崎に言われたことが思い出せない。
「だめだ。わからない」
 重要なことだったらどうしよう。仕事に直接関係することなら稲見にも言うはずだ。そう考えるしかない。
 エレベーターを降りてからのことが明瞭になってきた。

 塔崎に付き添われて稲見の車に向かった。驚いた稲見は塔崎に何度も頭を下げた。車内で説教を聞き、マンションの駐車場で車を降りた。
 部屋に入って二十万円の小遣いをダイニングテーブルに置いたとき、インターフォンが鳴った。仕出し弁当を受け取り、食べようとした。

 新聞を置き、洗面所に向かった。鏡に映った自分の顔を見る。
 目の縁がうっすらと赤い。唇はいつも以上にぼてっとして、目が潤んでいた。人恋しい目だった。
 こんな目で塔崎を見たのか。こんなに危うい視線で、キスをねだったのか。
「焔……持ち……」
 冷たい水を出した。そこらじゅうにしぶきを散らしながら、叩くように顔を洗った。


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