Cufflinks
第一話・焔 第四章・3
やれ。あいつはあとひと押しで降参する。お前のペースに巻き込んでみろ。
脱衣カゴが落ちる。厚いカーペットの上に私服がはみ出る。
演出するつもりなどこれっぽっちもなかった。頭の奥で自分以外の声がして、体が従っただけだ。
溶鉱炉が怒っていた。焔には金も権力も効かないと教えてやれ、と言っている。
黄金色に輝く奈落の入り口が近づく。パワーをはらむ熱気が、春樹の背中を突き飛ばした。
「ハル……ハルキくん!」
リクライニングソファが大きく揺れた。何も考えられなくなった春樹が、塔崎の上に勢いよく乗ったからだ。
自分の膝や手が客にぶつかったかどうか、客の目の奥は変化していないか。そんなことを思う余裕はない。
「キスして……! 寂しい、寂しくて、どうにかなる……!」
理性が待てと告げた。この客は口と口でのキスをしたことがない。おそらく好まないか、苦手なのだ。
心配するな。操ってやる。
頭の奥で響く声に主導権を渡した。両手で塔崎の頬に触れる。塔崎の顔が横を向いたが、見つめたまま唇を追った。
「んん!」
鼻から抜ける声で塔崎が抗議する。舌の侵入はあとにして、唇を合わせるだけにした。静かに顔を離す。
おとなしい客は目を白黒させ、気に入りの男娼を持て余していた。
「話したいなんて嘘……違う、本当は話したい。でも、話せば僕は訊いてしまう。ご家族のこと、お仕事のこと」
塔崎の腕を、手の平で押すようにして撫でた。小心な男をなだめながら体を下にずらす。鎖骨の近くに唇を寄せた。
数回押し当てたあと、舌先と唇を同時につけた。卑猥にならないように、小さな音をたてて吸う。筋肉が落ちて皮膚もたるんでいる胸板が、ぴくりと動いた。
改めて塔崎の顔に手を添える。今度は包み込んでも逃げない。
「知れば思い悩んでしまいます。塔崎様の幸せやご苦労、分かち合いたくてもできるはずないから。お客様の煩わしいことを忘れさせるのが僕の仕事です。それなのに、僕が夢中になるなんて……大変な失態です。消えてしまいたい」
「ハルキ……くん。きみ……」
地位のある男が感情を乱している。春樹の視線ひとつで不安になり、次の瞬間には浮揚し、また落ちていく。
焔のロボットになっている春樹には、罪悪感も危機感もなかった。
「夢中になってくれたの……? きみが僕に? 本当に……?」
一度うなずけばこと足りた。塔崎の名を呼び、唇をわずかに開く。緊張を隠せない口への悪戯を再開した。
中年男とのキスに甘い味はない。しわの多い唇もざらつく舌も、焔に操られなければ求めはしなかっただろう。経験が浅いのか、やたらと動く舌先が小魚のようだ。気が散る。
「あ、あ……ん」
女の子みたいな声を出してみた。泳ぐ小魚が静かになる。高岡が春樹にするように、舌の表面をねっとりと舐めた。
お前の舌はこういう形をしているのだ。知っていたか?
そんな言葉が伝わるように舌を這わせた。
血にインプットされていたのか、次に出すべき言葉が声帯に届く。唇を離してすぐに、塔崎の耳もとでささやいた。
「教えて……塔崎様の味……僕に。次に会えるときまで、寂しくないように……」
もう塔崎の口に力は入らなかった。客の口腔を思うさま舐め、唾液を飲み、舌と唇を吸った。徐々に深いところで舌を絡める。塔崎の顔がカッと熱くなり、くぐもった声を出しながら小魚を入れてきた。好きなように泳がせてやる。
覚えておけ。これがお前の正体だ。これが焔と生きるということだ。
内に棲む声を、どこか他人事のように聞いた。塔崎の魚をつかまえる。唇で挟み、褒美の意味で軽く噛んだ。
「っは、はあッ、だめだ、もう……!」
二の腕をわしづかみにされ、体を押しやられた。バスローブの紐をほどかれる。
「教えてあげる。だから忘れないでくれ。ずっと、ずっと忘れないでくれ!」
塔崎が春樹を押しながら立ち上がった。リクライニングソファの端が楕円形のテーブルに当たる。テーブルからメニュー冊子が音をたてて落ちた。
「こんな気持ちになったのはきみだけだ。欲しい。このまま入りたい。何も通さずにきみが欲しい。いいと言っておくれ」
今回の「このまま」はそのままの意味だ。コンドームをせずにしたいということだ。
もつれながらベッドに倒れた。塔崎の股間を隠すタオル地がテントを張っている。社のメインバンク関係者は遊び好きではない。ゴムがなくても問題はないと判断した。
「きて……今夜も、明日の夜も、その先も……覚えていられるくらいに」
横目で時計を見る。終了予定時間まで一時間近くあった。焔も這ってきているのだ、容易に登頂できるだろう。
客の手がローションのボトルを逆さにする。冷たい粘液と共に、熱い猛りを受け入れた。
「塔崎様、分けて……! あなたの熱、ぼく、に……!」
仰向けで脚を押し広げながらの挿入だった。両脚を塔崎の腰に巻きつける。五十男のものが勇ましく動き始めた。
(あいつ……何を言いたかったんだろう)
満月の夜、狼の目をした男が春樹を抱きしめた。見たことのない顔をして。
服の袋を落とすほど自分を見失ったのだろうか。母親との思い出だけで……? あの男が?
そろそろいいだろう。暴れさせろ。お前も楽しめよ。
焔の分身であるかのような、頭の奥の声が焦れている。春樹は疑問も持たずに言いなりになった。
塔崎の腰の上で足首を交差させる。きつく絡めた脚は、獲物を捕らえるカマキリのカマだ。
言葉にならない声をあげた。熱波で喉が焼かれるため、自分の悲鳴に切り裂かれるようだ。
いつ果てたのかわからなかった。枕がひとつ落ち、客がくしゃくしゃのシーツをつかむ。
ピンク色をした塔崎の指から覗く布地の白さが、まぶたの裏に残った。
次のページへ