Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


 紙袋が落ちるような音がした。
 車道に挟まれているから聞き違いだと思ったとき、感じたことのない圧迫感が身を包んだ。かかとが浮いて爪先立ちになる。

 横断歩道の中央で高岡に抱きしめられていた。春樹の目が見開く。

 歩道の信号が青になり、往来を行き交う人が戻った。
 驚く人、嫌悪感をあらわにする人、目をそらす人が通りすぎる。肩に回された高岡の指先が、白くなっていた。
「くるし……高岡さん、苦しいです」
 常識も本能もまずいと叫ぶ。高岡の容貌は目立つ。春樹との組み合わせも不自然だ。若い女性が口に手を当てて、同行者と顔を見合わせて通っていく。
 骨がきしみそうな力だから痛い。息も苦しい。抱擁と呼べるのかもわからない。
 何より、高岡の鼓動が速くなっていることが理解できなかった。
「放してください。僕がこんがらがらせたなら、謝りますから……!」
 浮き上がっていたかかとが下りた。体の自由がきかないような、ぎこちない離れ方だった。淡い月を背負う男が唇を引き結ぶ。笑みのない横顔を見せ、服も整えずに袋を拾った。やはり抱きしめたときに落としていたのだ。
「どこにも行かないと、母も言った」
 袋を払って手渡してくる。白かった指の先は、血の通う色になっていた。
「そう言えば俺が安心すると思ったのだろう。すべて済んだことだ。誰も謝る必要はない」
 先に歩く高岡に不自然さはない。歩く速さだけがいつもより遅かった。春樹が転ばないようにしているのだとわかり、後悔が打ち寄せてきた。
 言うほどのことではないのだ。高岡は会社員ではない。仕事の調整ができればどこで何をしようが問題ない。母親を知らない春樹に、入院している肉親とのことをとやかく言う資格もない。
 二度と高岡の私情に口出ししないと決めた。均整のとれた体の向こうに最寄り駅がある。
 駅に入ってしまえば高岡を見なくていい。足を速めると必然的に高岡と並ぶことになり、心臓が耳の中に移動した。
「持っていろ」
 小型の防犯ブザーを握らされた。壬にもらったものを小さくしたような感じだ。
「いつまた役に立つかもしれん。三浦家の次男には通用しないだろうから、避難先を頭に叩き込んでおけ」
「避難先……」
 手を入れられた日に、都心にある水商売関連の店を二十軒近く書きとめさせられた。できないことを強要されたときの避難先だと言っていた。
 お節介な狂犬は、いつ、春樹が勇次を接待すると知ったのだろう。
「僕が壬さんのお店で服を買うと思って、見張ってたんですよね?」
「そうだ」
「いつごろから? 三浦勇次様に打診されていると相談したときから、見張ってたんですか?」
 高岡が街路樹にもたれた。呆れたような、人を見下す顔で煙草を取り出す。
「俺はよほど暇人に見えるようだな。三浦の次男の件は、特別に稲見さんから伝えられた。客の名を調教師が事前に知ることはない。お前の安全を気にかける稲見さんが判断されたことだ。このことは口が裂けても言うな。いいか」
「はい」
 稲見から情報を得た時期は訊かなかった。いつであっても同じだ。勇次と会うと知ってから今まで、高岡は春樹を見張った。学校の近くにも来たのかもしれない。
 ありがとうと言えば戦績を汚したくないからだと答える。ごめんなさいと言えば黙って春樹の頬をつたう涙を拭う。
 そんな男が、往来のど真ん中で味噌っかすの男娼を抱きしめた。
「高岡さん……お願いがあります」
「言ってみろ」
 唾を何度か飲み下した。耳の中に居座ったままの心臓に、元いた位置に戻るよう命令する。
「僕の行動が知りたいときは、直接訊いてください。高岡さんの時間を奪いたくありません」
 顔を見ては続けられないと思い、足もとを見た。舗装の継ぎ目から雑草が生えている。都心が近くても生きている。
 きらびやかな都会に合わない質素な草は、高岡の別邸に咲くシバザクラに似ていた。
「煩わせたくないんです。自立を助けてもらってるのに。そ、それと」
 視線を上げる。聞いているのかいないのか、高岡は目を伏せて煙草に火をつけていた。
「あのお芝居がなければ、修一とは終わってたかもしれません。ありがとうございます」
 靴先の影が濃くなった。街灯はすでに点灯している。光源を探して上空を見た。
 空に蓋をしていたネズミ色の雲に切れ目がある。天の綻びから、完璧な球形の月が顔を出していた。
 満月の下、高岡を見て凍りついた。鞭を振るうときと同じ顔が目の前にあった。
「誰にでも尻尾を振るな。お前の悪い癖だ」
 つかの間現れた月を雲が隠した。仕事場に歩いていく高岡を、街の灯りだけが照らす。
 その夜、分厚い冬服を着込んだ月は、二度と姿を見せなかった。


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