Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


 信号が青になり、春樹は一歩遅れて踏み出した。服とカフスボタンが入った袋を覗いて歩く。
 スカイブルーのきらめきをまとって、勇次の尿を飲むのだろうか。
 嫌な客をもてなすための装身具でも、初めてのカフスボタンだ。華やかな場所で使ってみたい。
(たとえば……キザな男と歩くとき……とか)
 袋の端に影が落ちる。ゆっくり、ゆっくり、スローモーションで顔を上げた。
「買い物帰りの仔犬ちゃん。前を見て歩け」
 横断歩道の真ん中で、よく知った声を聞いた。オー何とかの香りがする、見た目だけは満点の男がいた。
「つけてきたんですか、高岡さん」
「見張っていた」
 この男の辞書には恥という言葉がない。
「何で見張る必要があるんですか。僕はどこにも行きませんよ」
 速い歩みがとまった。同じ方向に進んでいた高岡を見上げる。
「……高岡さん?」
 視線をさ迷わせた高岡が、春樹の手から袋を取り上げた。ふたたび大股で歩き始める。
 急に引き離されたため、走って追いかけなくてはならなかった。
「待ってください! そんなに速く歩……かっ!」
 何もないところで転ぶのは何歳になったら治るのだろう。顔から倒れなくなっただけ成長したのかもしれない。などと思いながら、通行人の視線に耐えた。
「立て。信号が変わる」
 苛立った声ではなかった。当然だ。こいつのせいで転んだようなものだ。
 立ち上がると同時に青信号が点滅した。高岡とふたり、横断歩道の途中にある分離帯に残された。
「痛いところはないか。手を見せろ」
 両手を広げさせられた。左手をほんの少しすりむいている。
 どうという傷ではないのに、高岡は自分のハンカチで春樹の傷を縛った。
「膝は」
「い、痛くないです。ハンカチ汚れますから、その」
「お前にやる。好きに処分しろ」
 ここは交通量がある。車の中から、高岡と春樹を笑って見ていく人もいた。
 高岡がこんなところで待つことなどないだろう。恥をかかせてしまい、胃が痛んだ。
「変なとこで転んで……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
 素っ気なく言った高岡が空を見る。丸い月が厚い灰色の雲に邪魔されていた。
 月を見ることをあきらめたのか、高岡が下を向いた。
「子どものころ、分離帯で足止めを食うのが好きだった」
 声に刺々しさはない。機嫌を損ねてはいないらしい。
「母が出勤する道に、分離帯のある道路があった。急ぐ母に対抗して、わざとゆっくり歩いた気もするな」
 動物みたいな目をした男でも、駄々をこねることがあったのか。
 どんな気持ちだったのだろう。最初から母がいない春樹とは違う寂しさがあったのだろうか。
「高岡さんのお母さん……どこにいるんですか?」
 別邸を管理する鵜飼夫人の口ぶりでは、死別ではないと思う。確か、ユリという名だった。
「静岡の病院に入院している」
 答えがあるとは思わなかった。返す言葉を探すうちに、次の返答が耳に届く。
「もう二年になるか。先日、手術に同意するために見舞った」
 頭のネジが巻かれる音がした。こいつは、この男は、静岡から帰ったその足で、安い犬の面倒を見にきたのか?
「先日って……まさか、この間の、連絡とれなかったときですか?」
 刃物を連想させる目が流れるライトを追う。波立つ感情は少しも滲んでいない。
「そうだ」
 ラフなスーツの腕を乱暴につかんだ。弾みで長身が春樹のほうを向く。
 春樹は高岡の顔を見上げ、大声を張り上げた。
「なんで言わないんですか、そんな大事なこと! 大変なときにあんなお芝居して! あんなことする時間があるなら、お母さんのところにいてあげてください!!」
 高岡の眉間にしわが寄る。意味がわからない、という顔にも見えた。
「取り立てて言うほどのことではない。手術も問題なく終わった。俺がいてもすることはない」
「そんなこと思うのは、お母さんが生きてるからです! 今の話も、僕になんかしないで! お母さんと離れるのが嫌で分離帯に残ったんでしょう? 離れたくない人に、大切な人に話してください!」
 春樹を見下ろす高岡の眼光が尋常ではない。その強い光が不規則に揺れている。
 とどめておいては体が破裂しそうだったから吐き出した言葉だ。
 平手打ちの覚悟はできていた。目をつぶって歯を喰いしばる。


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