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第一話・焔 第四章・3


 翌朝、最初に会話したのは稲見だった。
 経験上、高岡が様子を見にくるか電話をかけてくると思い、五時前には起きて身支度を整えていた。自宅電話に会社携帯の番号が表示されたとき、妙にがっかりした。
「治療したようだと高岡さんから伺ってるけど、大丈夫かい? 板倉様も忘れてほしいとおっしゃっている。逃げてくれて助かったよ。大きな事故にならなくて、本当によかった」
 はあ、と答えて見た時計は、急いで登校しろという時刻になっていた。
「大丈夫です。一週間で仕事できますから。もう学校に行かないと」
「あ、登校できるんだね。大事な体だから気をつけて。防犯ブザーも持ってね」
 すまなそうな声は、一分とかからず軽い調子に戻った。稲見らしくて楽ではある。
 音をたてないように受話器を置いてトイレの扉を見る。春樹は一度も自分でトイレを掃除したことがない。
 狼の目をした男は、若い心で何を思い、素手でトイレ掃除をしたのだろう。
 重い樽を持って駆けずりまわるとき、ビルの谷間で何を夢みていたのだろう。
 キキョウに水をやり、口づけする。怒りで玄関ドアを開けることだけはしないと決めた。
 勉強するために登校するのだ。新田に会うためだけに行くのではない。新田もつらいとき植物学者に手紙を書いた。植物学に支えられていたようだった。
 何か見つけなくてはならない。すがりつく他人ではなく、夢中になれる未来を。
 一階のエントランスを出て空を見上げた。陽光を浴びる小鳥たちが、とまる木を巡ってさえずっていた。




 朝から校内の空気が落ち着かない。原因はふたつある。
 ひとつは定期テストに準備不足の面々がじたばたしているためで、もうひとつは夏休みへの形にならない期待だ。
 用具倉庫を片づける春樹が後ろから抱きしめられた。熱い息と共に、春樹のうなじに新田の唇が触れる。
「塾、今日からなんだ」
 新田の声には、少しの別れも惜しむ響きがあった。背中から伝わる鼓動が速く、強い。
 どうすることもできず、春樹は新田の手に自分の手を重ねた。新田が体の衝動を抑えるように深呼吸する。
 向き合ってしまえば深いキスが始まる。今、ここで火がつくのはせつなすぎる。
 春樹も新田も、黙々と園芸クラブの作業を終えた。用具倉庫を出たところで、新田が「あっ」と言った。
「自転車の鍵忘れた。持ちもの検査でポケットのもの出して……机の中だ」
 照れくさそうに頭をかくのも、校舎に向かって駆けていくのも、出会ったころの新田そのままだった。
 塾に行くのに待たれるのも負担だろう。春樹はひとりで学校をあとにして、駅ビルに入った。味が評判のハンバーガー屋の前で、何人もの人が足をとめる。店に並ぶにしては時間をおかずに歩いていく人が多い。
 何気なく覗き込んだ先に、男なら一度見たら忘れるはずのない、美しい少女がいた。
 淡い水色の清楚なワンピースに生成りのボレロを着ている。すらりと伸びた四肢は長く、肌は陶器を思わせる白さだ。二十歳前後に見えるきれいな顔は下を向き、イヤイヤをするようにかぶりを振っている。
 少女はふたり連れの若い男に話しかけられていた。
「笙子さん!」
 素っ頓狂な春樹の声に笙子が顔を上げる。笙子の前にいるふたりの男と通行人も振り返った。
 話しかけていた男を振り切り、笙子が走ってきた。春樹が体勢を整える間もなく飛びついてくる。
「しょ、笙子さん、ちょっと待っ」
 首に腕を巻きつけられ、黒くさらさらした髪が香る。胸の膨らみも密着し、汗の気配もない頬が耳朶をかすめた。
 ひっくり返らないようにするのが精いっぱいの春樹に、鈴の音の声で誤解を招く発言をする。
「会えると思ってた。ハルキの部屋に連れてって……!」
 笙子に話しかけていた、フリーターふうの男たちが近づいてくる。ナンパが成功するか見ていたであろう人たちは離れていく。トラブルになるのは必至だ。春樹は通学鞄をしっかと抱え、笙子の腕をつかむ。
「高岡さんと来てるの?」
 春樹にしがみついたまま笙子が首を横に振る。春樹が笙子の腕を押すと、笙子は自分から体を離した。ガラス細工の目が怯えている。
「走れる?」
 笙子は首を縦に振り、震える声で言った。
「アキラには内緒で来てる。大事な話があるの。とても大切なこと」
「わかった。走るからね」
 ふたり組の男が挑発的な顔で接近してくる。どう考えても勝ち目はない。
 春樹は二階を仰ぐ。商業エリアを囲う回廊状の歩廊を指さし、大声で人気アイドルグループ名を叫んだ。
 多くの人が上を見た。すかさず笙子の腕を引き、一目散に逃げ出す。目指すはタクシー乗り場だ。
 ナンパ男たちの怒声がする。春樹が叫んだアイドルグループ名を口にする人々が二階へと向かう。人波に押されて、ふたり組の男は遠ざかっていった。
 高岡の異母妹である笙子とふたり、駅ビルの一階を駆け抜けた。
 つかんでいる腕の細さと冷たさに、新田と触れ合うときとは違う速さで心臓が脈打った。


<  第四章・4へ続く  >


【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第4章・4のupまでお待ち下さい。
やたらと長い回でありました。エロは相変わらず愛ナシで(汗)
最後のはエロらしくないエロで申し訳ありません。
高岡がバイトしていた酒屋はモデルがあり、支店も増えました。
笙子のシーンはもうちょっと先まで入れる予定でありましたが、
長くなりすぎるので次回に回します。ご了承ください。


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