Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


 知らない場所の夜は方向感覚がつかみにくい。ホテルから見た距離と実際の距離ではかなり違う。
 目印のビルまで徒歩では時間がかかりそうだ。靴の中には今日も一万円を忍ばせてあるため、タクシーで三叉路の近くにある医院に行くことも考えた。が、いざタクシーをとめようとすると手が上がらない。
 ハイヤーの運転手に対する不信感に負けてしまっている。体の痛みも心なしか強くなってきた。明日は月曜だ。園芸クラブにも参加したい。元気な姿で新田に会う。それだけを思って歩き続けた。




 記憶した避難先で一番近いビルが見えた。夜の店にアルコール類を配達する酒屋が一階に入っている。公衆電話を探し、隠しポケットの小銭を入れた。酒屋の電話番号を押す。
 屋号を名乗る男の声がした。相手が名乗るのを待てと高岡は言っていた。しかしかけたほうが無言では悪戯電話だと思われる。酒屋の男も当然の判断をし、電話を切ろうとした。小銭は限られている。思わず言葉が出ていた。
「切らないで! い、悪戯じゃないんです。た、高岡さんの、知り合いで」
「タカオカぁ? こちとら忙しいんだ、くそガキ!」
「たか、高岡さん、高岡彰さんの知り合いなんです! 助けてください!」
 酒でかれたような声が消え、有線放送の音楽と酒瓶がぶつかる音しかしなくなった。
「もしもしっ! もしっ」
「でかい声出すな。お前本当に、彰を知ってんのか」
 男は有線の音量を下げるよう怒鳴った。元気のいい若い男の声がして、音楽が小さくなる。
「ほんとに知ってます。危ない目にあったら助けを求めろって、教えてもらいました。ホテルから逃げてきて、体が痛い。お願いです、助けて……!」
 電話の相手が高岡を知っている。それだけのことで、張り詰めていたものがほどけた。
 糸の切れた操り人形のように、くたりと崩れる。
「迎えにいく。どこだ」
「お店の、すぐ前。交差点を挟んで……反対側。電話、公衆電話」
 酒屋の入り口に人影が立った。電話の子機らしきものを手にこちらを見る。春樹は座り込んだまま電話ボックスを内側から叩いた。驚いた通行人の列が割れ、救世主と目が合った。
「電話切ってそこにいろ」
 受話器をフックにかける腕が重い。SMごっこでも体にはこたえたらしい。
 酒屋の男が電話ボックスの扉に手をかけたときには、視界全体がかすんでしまった。




「はい、終わったよお。内側の浅いとこが、ちょっとだけ切れとるね。清潔にして薬塗れば問題ないよ。一週間もあれば客引けるようになるさ。便をやわっこくする薬出しとくから、排便がつらいようなら飲みなさい。はい、次の人お」
 酒屋の男────山伊(やまい)が連れてきてくれたのは、酒屋が入るビルの裏の、さらにもう一本裏にある小さな産婦人科医院だった。
 女性が開脚する診察台に乗るのは抵抗があり医師は老人だったけれど、素早く手馴れた処置は三叉路に近い雑居ビルの医師と互角だ。
 春樹と入れ違いに外国人女性が診察室に入っていった。立地のためか外国人の患者も多いようで、英語のほかに中国語、見たこともない綴りのアルファベットで書かれた貼り紙がいたるところにある。
 膝を揺すっていた山伊が立ち上がり、店用のジャンパーを春樹の肩に羽織らせた。
「どうだった。ひでえことになってたか」
「内側が少し切れてるだけです。一週間で治るそうです」
「よかったなあ。彰、今夜はどうしても抜けられんそうだ。オレが自宅まで送ってく」
「た、高岡さんに連絡、したんですか」
 山伊が春樹を睨む。春樹は身をすくめて目をつぶった。ごつごつした手が春樹の頭をそっと撫でる。
「タカオカって名前は、どうもむずむずしていけねえ。お前、ウリ専か?」
 首を横に振る。
「じゃ、変な病気とか心配しなくていいんだな。おっと、呼ばれた」
 山伊は当然のように会計をして薬をもらってきた。先に立って医院から出ようとする。
「待ってください。お金、払いますから」
 先ほどより鋭い目つきで睨まれた。睨まれたまま、山伊のワンボックスに連れていかれた。




 山伊は筋骨たくましい男だ。四十九歳とのことだった。塔崎とあまり変わらないのに、ずいぶん若く見える。
 伝票類を挟んだバインダーや飲食物などをセカンドシートに投げ、きれいにした助手席に座布団を敷いてくれた。
「彰はな、ウチでバイトしてたんだ。T大の優男に勤まるかって落としたのによお、雇ってくれー、時給下げてもいいから使ってくれーって、毎日来るもんなあ。アホかと思ったな」
 日曜でも深夜ではない。都心の繁華街は混んでいた。徐行運転が続く車内で、共通の話題である高岡に触れるのは自然なことだった。
「た……彰さん、配達してたんですか? 車で?」
「お前もとろいな。入り組んだ道にある水商売相手だ、車は取り回しにくい。基本、歩きだな。まあ実際は走るわけだ。たまーに自転車か、スクーターもあるけどな」
 ビール瓶や一升瓶のケース、業務用のビール樽(たる)などを持って路地を駆ける高岡を想像する。はっきりした映像にはならない。山伊が懐かしそうに笑う。
「あいつのすごいとこは記憶力だ。一度行った店と、そこの定番商品は忘れねえ。抜け道覚えるのも早いから、急ぎの配達でも重宝した。おまけにあのツラだろ。姐さんやらオカマやらが、店がひけると飲みに誘いにきたもんだ。逃げても向こうは百戦錬磨だ。あんまりつきまとわれるんで、次のバイトがないときは店の奥で泊まらせてた」
 困り果てる高岡の姿も想像できないが、考えることは楽しかった。ただ、疑問も生まれる。
「次のバイトって? ほかにも何かしてたんですか?」
 青信号を待つ山伊は笑顔のままだ。えらの張った顔でこちらを見る。
「SMクラブで下働きだ。オレが覗きにいったときは、素手で便所掃除してたな。意外と丈夫なんだよなあ。昼は大学、夕方から数時間はうちだろ、そん次は変態の店だ。よく続いたもんだ。この道でいいんだよな?」
 車はいつの間にか細い道を抜け、大通りに出ていた。春樹はうなずき、自宅の最寄り駅名を言う。
「遠慮すんなよ。家の玄関まで送ってやる」
 答えず下を向いた。人を入れないために引っ越したのだ。自宅を知られることは山伊のためにならないと思った。
「ワケありの身か。まあいいさ」
 酒屋のワンボックスカーが夜の道を行く。飾り立てられた街をたくさんの人が行き交う。
 この街に十数年前、酒樽を持って走る高岡がいた。SMクラブのトイレを素手で掃除していた。
 二十歳そこそこで自分の未来を見据え、努力を重ねていたのだ。
 どのミラーを見ても、疲労とあきらめを隠さない自分の顔しかない。愛人にと言われても自分のことだと思えなかった。言われた瞬間を覚えていないからではない。人生や希望、夢にはいつも霞がかかっていた。霞をかけていたのは自分自身だ。遺影の母でも、顔を知らない父でもない。
 情けなくて涙が出そうになり、駅に着くまで車窓から目を離さずにいた。


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