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第一話・焔 第四章・3
高岡は社を出るとそのまま仕事に向かった。春樹は稲見が運転する社用車の助手席にいる。
「社も相当潤う。大出世だよ。イエスと言うことが、きみのためにもなると思う」
肯定的なことを話す割に、稲見の表情は冴えなかった。高岡の無作法な態度がよほど気に障ったのだろうか。
稲見は何度もルームミラーを見て、意を決したように口を開いた。
「高岡さんのおっしゃることは真実だよ。きみには考える力がない」
またか。男に脚を開く仕事だ。警戒心を忘れずに媚びるほかに、何が要るというのだ。貯金しろというのならわかる。金は使えばすぐだと言ったのは稲見だ。初めて塔崎の接待をした夜、帰りの車内で言ったではないか。
春樹の不平な顔を見たのか、稲見がステアリングを指で叩き始めた。電話機を通すコツコツ音と似た音がする。
「大変なお約束というのは、まさにそこだよ。きみがこの手の契約を結ぶには早すぎる。社がお返事の期限を延ばせるだけ延ばしたのもそのためだ。自己管理が徹底できなければ破綻する」
延ばしても行き着く先はひとつだ。メインバンク関係者が色よい返事を求めている。竹下を助けてもらっていなくても、個人的な事情など蹴散らす大きなものには太刀打ちできない。春樹はミラーも見ずに低く言った。
「愛人といっても、することは同じなんですよね。悪いお話じゃないんでしょう」
頭を振った稲見が路肩に車を寄せた。運転席の窓を下ろし、ひたいを押さえる。
「きみのそういうところが怖い」
化学繊維がこすれる音がした。稲見がシートベルトを目いっぱい伸ばして助手席側に身を乗り出す。
「高岡さんもあんな芝居を打ってまでプライベートでの交際を公認させたんだ。自分は自分で守りなさい。捨て鉢になる子を好むお方ではないよ、塔崎様は」
窓が上がり、エアコンの送風音だけになった。ステアリングを叩く音もしない。車に乗ると必ずといっていいほどかけていたラジオも、今日はかけなかった。
「通常、愛人契約はもう少し年がいってから結ぶ。塔崎様だから可能なのだということを、忘れないように」
「……はい」
車が車列に戻る。自然渋滞で進みが遅い。街路樹や信号を見送る、意思のない女顔がサイドミラーに映る。
母は父の愛人になったとき、嬉しかったのだろうか。後ろめたくても父との時間に幸せを感じただろうか。
春樹は自分が愛人話を持ち掛けられている渦中にあるのだと、どうしても思うことができなかった。
数日後、稲見から一本の電話があった。日曜の夜に一件接待があるという。
正式にお返事をするまでは今までどおりだからね、と稲見は言った。長年の取引先で次期社長とうたわれている男が客とのことだ。堅苦しいことがお好きでないから軽装で、とも言われた。
一週間が経つのは早い。日曜である今日、夜が近づくにつれて気持ちは沈んだ。
稲見は法事があるためハイヤーでの送迎だった。初めて会う運転手で、帽子をとり免許証を見せる際、どうしてこんな子どもに、という感情がありありと見ることができた。
「何だか知りませんけどね、帽子までとって自分の名前言ったの、初めてですよ」
運転手はよくしゃべる男で、口が悪かった。三十年近く資産家の運転手をしていたこと、資産家は顔が広く、芸能人や文化人を数多く乗せたことなどを話した。
「雲助じゃあるまいし、バカにしてら。坊ちゃんもホテルに何のご用があるのか、知りませんけどねえ」
ルームミラーは見ないようにした。にたりと笑う運転手を見たくない。
静かにしていてほしい。学校で新田と話したことを、園芸の作業で触れた指を思い出したいのだ。
小さな幸せを追う春樹を、運転手のだみ声が現実に引き戻した。
「二点も入れられやがって! これだから外人のピッチャーは当てになんねえんだよ!」
唾を飛ばしてラジオのボリュームを上げる。プロ野球中継を聞いているようだ。贔屓チームが劣勢なのか、信号停止も乱暴だ。「ちくしょう、テレビが見てえ」と言う。
春樹はボトムの腰を探った。今日の服も壬の店で買ったもので、隠しポケットが作られている。着古したように見えるジーパンのポケットはすべて飾りものだ。普通のパンツのベルト芯にあたる部分に細長い袋が折り込んである。
バラバラにならないようにテープでとめた小銭が、腰の袋に入っているか確認する。
どの球団が好きか訊かれ、打ち負けているほうの球団名を答えた。
野球に詳しくないので冷や汗が出たが、「そうだろう。東京人は、そうでなきゃあ」と、運転手は笑った。
ルームミラーを介して笑顔を交わし、記憶をたぐる作業を開始する。
この運転手は信用できない。カーナビも客用の小型液晶テレビもない車だ。春樹をホテルに送り届けたら、テレビのある飲食店に行ってしまうかもしれない。
今夜の客は社会的立場と名前、容姿しか知らされていない。特殊な性癖があるかもしれないし、酒癖が悪いかもしれない。手ひどいことをされて駐車場に逃げてもハイヤーが消えていたら。
先々週、勇次の過激なプレイを想定して避難先を頭に叩き込んでいた。必死に思い出す。
打った打たれたと騒ぐ運転手に相づちを打ちながら、数軒の店名と電話番号を頭の中で念じた。
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