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第一話・焔 第四章・3
「確かに。めでたいことです。上客の中の上客から、愛人にならないかと言われたのですから」
愛人? 誰が、誰の?
弾みをつけて頬を放された。椅子から落ちそうになる。稲見が支え、高岡は唇の端を上げて笑った。
「おっと失礼。不出来でも大切な体だ。傷は付けられませんね」
切れ長の目がいつもと違う。動物に似ていても高岡の眼光は冷たい。今は何というか、底が荒れている。
高岡は何か──カードを切ろうとしている……?
上座中央の男が拍手をした。高岡が鋭い光を宿した目で男を見る。
「いや、よく似ている。そっくりだ」
男の言葉を封じたいのか、高岡はあからさまに男を睨んだ。
「父君も勝負に出るときは場の空気を引っかきまわしたものだ。きみより口数は少なく、瞳も冷静だったがね」
男は高岡の父親と旧知だと言っていた。政治家である父親を引き合いに出されて血の気が差すかと思ったが、高岡の顔色は変わらなかった。不機嫌そうに顔を横に向けるだけだ。
「旧館の喫茶室は日曜も営業している。私も一服したい」
電話機のボタンを押すと女性の声で返答があり、男は簡潔に告げた。
「灰皿と飲みものを」
言い付けられたものを乗せてきたワゴンが、女性秘書と共に去っていった。
稲見の顔色が悪い。好きな煙草も吸わずに目と眉の間を指で押している。春樹たち三人の前にも長机が用意され、高岡がコーヒーカップを置く音が響いた。
空気清浄機があっても白い煙がたなびく。中央の男はヘビースモーカーだった。男が灰を振るい落とす。
「塔崎様から春樹くんを愛人にというご要望がある。意思確認の期限は八月の最終日曜。夏休み中に考えてくれということだね。高岡くんの意見を聞こう」
短くなった煙草を灰皿に押しつけた高岡が、微笑をたたえて腕組みをする。
「この程度の商品には充分すぎる日数です。異存はないですよ」
異存はない。ばか犬と罵られるより、胸を深くえぐられた。
上座の、向かって右にいる男がバインダーを開く。中央の男が受け取り、煙を吐きながらうなずく。
「佐伯様、伊勢原様、塔崎様……三浦勇次様も接待してくれたとは。出資先にと狙うところが三浦氏の扱う事業の枠を強化したいようでね。斬り込むきっかけになる。薬物に明るいサディストと聞くが、怖かったかね?」
いいえ、と言いそうになり、口をつぐむ。客の名を明かすのも悟られるのもだめだと高岡に教えられた。商いの内情を耳にしても、男娼はただのモノだ。本物のモノなら、誰に会って何を聞いたなどと言えないはずだ。
今の質問自体、なかったことにした。顔を見れば追求に耐えられなくなると思い、目を閉じた。稲見が息をのむ音と、質問者の笑い声がした。
「ユニークな子だ。肝も据わっている。今後も不特定のお客様を任せてみたいが、春樹くんの生活を考えれば塔崎様にお譲りするのがベストか。悩ましいね」
譲るという言葉は三浦の犬を連想させた。塔崎は鎖の代わりに財力で縛るだろう。逆らえる可能性はない。
左横から金属音がした。薄く目を開ける。高岡がライターを閉じる音だった。
「悩ましい点はほかにあります」ひと口だけ吸い、細い煙を眺める。
「これには大きな欠点があるのです。この点を酌んでいただかないことには、つまらないお買い物になるでしょう」
「そうかね? 塔崎様はぞっこんのようだが」
「先ほどこれは、言われたことをしてるだけとお答えしました。そのとおり。自分の考えがありません」
高岡が吸いかけの煙草を灰皿に置く。青みがかった紫色の煙が一本の線になる。
「将来への展望もなければ、金を貯めようという気概もない。水商売では真っ先に堕ちる典型例です」
散々な言われようだが腹は立たない。小さなころから、なりたい職業がなかった。
生まれて初めて憧れたのが新田なのだ。新田のようになりたいと思い、植物にも興味をもち始めている。
塔崎の愛人になったら……新田と別れなくてはならないのだろうか。
ぞっとする感覚を気取られないよう、一点を見つめた。膝に置く指に力を入れる。
無意識のことでも塔崎を惑わせたのは春樹だ。客を弄んだ。独り身の五十男が踊ることを楽しむ自分がいた。
罰だと嘆くのは簡単だ。それでどうなる。内に棲むものを含めて自分なのに。
中央の男が取り出した煙草で机を叩く。日常茶飯であるかのように話を続けた。
「契約期間は春樹くんが高校を卒業するまで。学費と生活費の全面的なサポートが受けられる。学業優先であることは変わらない。契約後の連絡は社を介さないこと。自己管理ができるまで稲見が微調整をする。足したい条件は?」
男が煙草に火をつける。高岡は対照的に、半分以上残る煙草の火を消して答えた。
「交際相手との関係の維持と、プライバシーの厳守です。幾ら積まれても部屋の合鍵は渡さないでいただきたい」
目を見開いて高岡を見る。高岡の横顔は普段どおりだ。凛として動かない。
上座の椅子が大きくきしんだ。男が苦笑に似た笑顔を見せる。
「引っ越しを強要した以上、私生活は守るよ。しかし前者は酷な条件だね」
「契約と自由恋愛の両立ができないようでは、この世界では生きられません」
貫禄ある男が煙草を口から離した。大きく息を吐き、灰皿に先端を当てる。
「自分の考えがない子にそれを強いるか……そんなところも父君に似たのかな」
高岡がわずかにあごを引く。上座を見据える目の光が強くなった。
「昔話がなさりたいのなら一席設けましょう。細かなすり合わせを兼ねて」
「それもいいね。私も話が長くなっていけない。年かな」
中央の男が立ち上がり、ほかの面々も続く。今にも倒れそうな顔色だった稲見も、椅子の背に手を置いて立った。
服装を整える高岡だけが、窓の外を睨むように見ていた。
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