Cufflinks
第一話・焔 第四章・3
社の自動ドアをくぐると冷風に包まれた。地下鉄駅から走り通しだったため呼吸が荒い。膝に手を置いて息を整える。
塔崎が来ている可能性を考えて制服にした。夏服でも走れば暑く、汗がとまりそうにない。
日曜の午前中、大企業のビルは巨大なうろだ。呼吸音がこだまする。目の前を青い大きな四角いものが横切った。清掃業者らしき人たちが数名、青のワゴンを押していく。
ワゴンが通り過ぎたあと、強化ガラスの階段から忙しい靴音がした。稲見が駆け下りてくる。
「そこにいなさい。エレベーターで行くから」
稲見とエレベーターホールに向かう。一階に着くチャイムが響く。
最奥にある高層階直通のエレベーターに乗ってからも、春樹の動悸が鎮まることはなかった。
廊下には毛足の長い絨毯が敷かれていた。十六歳の誕生日に通ったのと同じところだ。父に会えると嘘をつかれて来た日と同じ、機能面を無視した絨毯に足をとられる。
春樹の前頭部が稲見の背中にぶつかった。突然立ちどまった稲見の横から、今朝早く嗅いだ香りがした。
「高岡さん。もうお入りになっているとばかり」
腕時計を見て焦る稲見に対し、高岡は穏やかに微笑んで優しい口調で言った。
「入室後、僕は少々乱暴な振る舞いをします。見て見ぬふりをしてください。ご迷惑はかけません」
静かに、しかしきっぱりと言い放つ。刃物でおどした商品も、浮き足立つ社員も気にする高岡ではない。
六月下旬だというのに三つ揃えを着た調教師は、涼しい顔で歩を進めた。
稲見が分厚い扉をノックした。扉が開くなり高岡はひとりで入る。扉を開けた社員や稲見の案内を待つこともない。
魔の誕生日とは違い、机はコの字型に並んでいなかった。上座に長い机がひとつ置いてある。男が三人座っており、手前には座面の厚いパイプ椅子が三脚あった。高岡はためらわず左端の椅子に腰を下ろす。
稲見の焦りようから高岡は遅刻したのではと思ったのだが、詫びる言葉もなければ、会釈すらなかった。
上座中央にいる男が稲見と春樹に微笑みかける。
「この場で結論を求める話でもない。気楽にいこう。かけなさい」
稲見と春樹は一礼し、春樹が真ん中になるように腰掛けた。気楽にと言った男は貫禄があり、前回この部屋で高岡を織田沼と呼んだ人物だ。忌まわしい誕生日にいたのは四人で今日は三人でも、全員見覚えがある。
貫禄のある男が座りなおす。体格に見合った音をたてて椅子がきしむ。男は春樹を見てにこやかに言った。
「頑張ってくれているね。社としても助かっている。ありがとう」
「言われたことを……してるだけです」
会釈だけするつもりだった。しかし、悪びれる様子もないやつらを目にしたら、反抗心が頭をもたげた。自分で選びはしたが好きでしている仕事ではない。稲見は膝に置いた手をぴくりとさせたが、高岡は何も反応しなかった。
椅子がもう一度きしんだ。やはり中央の男が、目尻にしわを作って高岡を見る。
「ご要望を覚えていなくても、この子に罪はないよ。きみは上機嫌ではなさそうだ。叱らないでやってくれるかな」
高岡はあろうことか、舌打ちして脚を組んだ。
「叱ってどうにかなる犬なら、二十四時間でも叱りますよ」
ぶっきらぼうな態度に、上座の両端にいる男と稲見が口を開けた。高岡は「疲れる」と言いながら首を回し、ネクタイをゆるめ、椅子の背に片肘を乗せる。とても取引相手の前でする行動ではない。
早朝の激昂が尾を引いているのだろうか。春樹の心臓があおってきた。
「暑いですか? 空調を調整させましょうか」
中央の男が愉快そうに言う。高岡は天井の送風口を見て鼻で笑った。
「無駄ですね。この出来損ないと同じ空気を吸っていると考えるだけで、血管の一、二本切れそうですから」
稲見が咳払いをした。見て見ぬふりをしろと言われても、こんな雰囲気になれば誰でもする反応だ。
せっかくの助け船に乗り込むどころか、高岡は水をかけて沈没させた。
「稲見さん、あなたも疲れるでしょう。たまにはこれを引っ叩いても構いませんよ。多少の痛みならすぐに忘れるオツムです。ああ、嫌になる。煙草が吸えるといいですね。後ほど旧館に行きましょう。喫茶室はお休みですか?」
これには稲見も、上座の両端の男も呆れた。信じられないといった目を向ける。
酒でも飲んでいるのではないか。大麻でも吸っているのでは。
左にいる男の香りを嗅ごうとした。いつものオー何とかに異臭が混じっていないかと思った春樹の顔を、高岡が片手で乱暴につかむ。稲見が腰を浮かした。
「高岡さん! 悪いお話ではないのですから、ここはひとつ」
うろたえる稲見を高岡が下から覗き込む。つくりだけは整っていても、チンピラまがいの笑顔だった。
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