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第一話・焔 第四章・3
「必要ない! 必要ないです────!!」
口をついたのは決まっていた答えだった。キッチンの床に涙がこぼれる。
恐怖による涙だ。感情が危ない動きをしたからではない。
胸の中で呪文のように繰り返す春樹の前に、高岡がしゃがんだ。
「左手を見せろ」
しゃくりあげながら従う。手の平が支えられ、小指が高岡の口に含まれた。
小さな傷だ。血もとまっている。いたわる必要などないものを、高岡は目を伏せて舐めた。
唇が離れ、伏せられていた目が開く。指一本を隔てて狼の瞳と向かい合った。
「二問目も正解だ。これに懲りたら言動の前にひと呼吸おけ」
「……は……い」
高岡は包丁を洗ってきれいに拭き、元の場所におさめた。身なりを整えて玄関に向かう。靴を履き、春樹を見た。
切れ長の目が凍った湖面を思わせる冷たさで光った。
「変わらぬ愛、だったか」
キキョウの花言葉だ。春樹の体に手を入れる高岡に、泣きながら言ったことがある。
「新田が持ってきた花はキキョウに見えるが」
「そ、そうです」
玄関ドアが開いた。朝の風が勢いよく吹き込んでくる。
「お前の人生に何が必要か、断じて見誤るな」
はいと言おうとしたらドアが閉まった。いつもの香りだけが残った。
テレビを見る気にもなれず、十時近くになってもキキョウを眺めていた。
プライベートに踏み込んだのは春樹のミスだ。しかし、刃物を取り出すとは。
狂犬の思考についていけないことはしょっちゅうだが、今回は特別のように思える。
高岡はどうして井ノ上と会っていたのだろう。何を言われて吸ったばかりの煙草を投げ捨てるほど怒った?
「……もうやめ! 考えない、考えない」
六畳間にこもって勉強しよう。人のことばかり構っていられる立場ではない。
玄関脇の部屋を開けたときに自宅電話が鳴った。受話器をつんざくような、稲見の大声がした。
「春樹くん! 会社に来てくれ! すぐにだ!」
「すぐって言われても、勉強が……塾のことですか?」
「そんなことじゃないよ! きみ、大変なお約束をしてくれたね」
約束といえば塔崎の件に他ならない。記憶にない事実が稲見を狼狽させている。
嫌な汗が出てきて、受話器が滑りそうになった。
「今はこれ以上話せない。とにかく早く来なさい!」
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