Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


「高岡さん、昨日の午前中、誰と会ってたんですかっ? まだ怪我が治ってないんだから、危険な人と会わないほうがいいと思います」
 長身がダイニングテーブルの脇でとまる。隙のない体の周りに、かげろうが立つ。ひと目で怒りとわかるオーラだった。
 逃げようとした春樹の髪がわしづかみにされた。むしられるのではないかと思うほどの強さだ。
「痛、い……!」
 抗議の声にも高岡は耳を貸さない。春樹を引きずりまわし、キッチンの開き戸という開き戸を開く。
「痛い! やめて。やめてください! 何してるんですか」
「包丁は」
 問い返しもできない春樹が突き飛ばされ、上半身が調理台にぶつかる。本物の大理石でできた一枚板に当たる衝撃は弱くなかった。言葉ではなく咳しか出ない。高岡が開き戸のひとつから鋭利な刃物を出した。
「ひ……!」
 あっという間に春樹の左手が大理石の上に置かれた。無理やり指を開かされる。
「いや、いやだ! 誰かあッ!!」
 薬指と小指の間に切っ先が入る。失禁寸前の恐怖に、春樹の声は泣き声になっていた。
「やめてやめて! ごめんなさい、許して!」
 万力のような力で押さえられ、左手は石の板に貼りついてしまった。小指の、第一関節の内側に刃が触れる。
 高岡の表情は石よりも冷たかった。
「お前程度の犬を多少痛めつけたところで、俺は仕事に困らない」
 歯の根が合わない。高岡の足を踏みつけることもできない。
「指を切るのは初めてだが、やってやれないことはないだろう。運がよければ手術で見た目は回復するかもな」
 大量に血が引く音がした。エビが逃げるときのように、腰と尻だけが後ろへ動く。
 ちかっとする痒さを感じた。関節の内側に数ミリの赤い線ができる。
「暴れると切り損なうかもしれん。じっとしていろ」
「やめ、やめ……!」
 声が惨めったらしくなる。高岡は包丁を斜めに立てた。今にも指を押し切ることができそうな角度だ。
「動くな」
 目玉が潰れそうなくらい、きつく目をつぶった。全身が震えて歯の間からかすれた悲鳴が漏れる。
 激痛はやってこなかった。神経がどうにかなったのか、痛みが強すぎて一時的に失神したのか。
 がくがくしながら目を開ける。涙で歪んだ大理石の上には、血も、切り離された指先もなかった。左手の小指は爪の先まで正常な形を保っていた。
 コツ、コツ、という音がした。高岡が包丁の柄で石の板を叩いている。
「考えてみたらくだらんな。泣きわめく仔犬を抱えて朝から病院も疲れるだけだ。それに」
 高岡が今朝二度目の笑みを見せる。冷笑の見本みたいな笑顔だった。
「仔犬の出来が恐ろしく悪いのは、俺にも一因があるのだろう。このあたりで反省するのも悪くない」
 常識では縛れない男が、自分の右手の絆創膏を剥がす。春樹の頭で警鐘が打ち鳴らされた。
 やめてと叫ぶ前に、高岡があらわになった傷痕に包丁の刃をあてがう。
 春樹の脛が蹴られたのは、高岡の腕をつかもうとしたときだった。膝下を抱えてシンクに寄りかかる。
「邪魔をするな。傷を二本作るのは細工がよくない」
 傷のある右手が手の平を上にして調理台に置かれた。左手が握る包丁が皮膚に入りそうだ。ここから先は迷わない男だということは春樹が一番よく知っている。
 春樹が破ったものが引き裂かれてしまう。またしても春樹の過ちが原因で。
「ごめんなさい!! もう言いません! 二度と、何があっても!」
 自傷行為に及ぼうとしている男の足もとに土下座した。
「高岡さんが誰と会っていたかなんて言いません! だから、そんなことしないで!」
「お前が痛みを感じるわけではない。口出しするな」
「体じゃなくても、心が痛みます! 人が傷つくのは嫌です。やめてください……!」
 刃物が置かれるような音がして髪をつかまれる。先ほどより乱暴ではないが、嗚咽はやまなかった。
「今からふたつ質問をする。俺が満足する答えが得られなければ、お前を殴り倒してでも自分の手を切る。では一問。俺の怪我は何が原因だ」
 春樹のせいと答えれば、高岡は治りかけの傷を自ら裂く。
 揺れて見えるものは鬼の形相ではなく、整いすぎるほど整った男の顔だ。眉間にしわひとつない顔が、意志の強さを表している。春樹は全神経を集中させて答えた。
「……たか、高岡さんの、不注意です」
「正解だ。次。お前の人生に俺は必要か」
 ほんの数秒、間ができた。答えは決まっているというのに。
 髪が引っ張られる感じがしなくなり、高岡の足の向きが変わった。調理台に置いた包丁に手が伸びる。


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