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第一話・焔 第四章・3


 新田が紙袋を床に置いた。中にはカゴにアレンジされた花が入っていた。
「庭に咲いたのを自己流で活けたから、ぱっとしないけど。引っ越し祝い……受け取ってほしい」
「ありがと、うっ!」
 背後から腕を回されて声がひっくり返った。春樹の腹の前で新田の両手が静かに組まれる。
「長く住んだ部屋を離れて家政婦さんもいない。祝いの品なんて、と思った。でも、花には人を慰めて明るくさせる力がある。お前に贈りたかった」
 腕の中で自然に向かい合う。キスの予感に目を閉じた。
 触れると心から先にあたたかくなる唇は、春樹のどこにも降りなかった。
「どこに飾ればいい?」
 当然の質問を受けて顔が熱くなる。おっかなびっくりダイニングテーブルを指す。
 新田が花のカゴを紙袋から出し、ガラス板に置いた。涼しげな青紫が顔を出す。同じ形で水色がかった白い花もある。二重になっているものは風車のようだ。それらがいっせいに広がった。
『狭かったよ』『ここはどこ?』などと言っているようで、思わず声をあげた。
「きれい……! 修一、この花、もしかして」
「キキョウ。トルコキキョウのほうが華やかだけど、あれはまた違う花だから」
 キキョウのひと言で、飛びつくように新田と腕を組んだ。照れた新田が春樹から花に視線を移す。
 慈愛に満ちた表情で花々のおしゃべりを聞く新田が好きだ。新田を好きなのは春樹だけではない。何を言っても許す新田に、花たちも可愛いわがままを言っている。
 ロビーラウンジで春樹の足をとめようとしたものは、体を求められたら応じられるだろうかという緊張だった。
 ばかばかしい。大切な人との時間を過ごすのに、ことの大小など関係ない。
 花をいつくしむ新田が愛しい。新田と出会えたことが春樹の人生で一番の幸福だ。
 指先から伝えたくて手をつなぐ。新田は花を見たまま握り返してくれた。




「英語の塾? 修一、英語苦手だったっけ」
 苦笑した新田がオレンジジュースのコップを補助テーブルに置いた。ソファの上でふたりはまた手を重ねる。
 新田は春樹を求めなかった。春樹もまた、修一のものにしてと言っていない。
 吹き抜ける風が頬を撫でていく。新田は春樹と指を互い違いに組み終えると、口を開いた。
「得意とは言えないな。手紙一通書くのに、二、三日かかるから」
 尊敬する植物学者に宛てた手紙は無事に投函できたとのことだった。
「修一でも塾に行くんだ。受験のため?」
「そうじゃない」
 新田も学習塾に通ったことがない。高校受験の際に、夏期講習を一度受講しただけだと言っていた。
 テスト対策にも思えず、新田を見上げる。
「いつから通うの?」
「来週から。塾は初めてで勝手がわからない。お前はいつからだ?」
「まだ決まってない。手続き中なんだ。成績悪いのにピンとこなくて困ってる」
 新田が声を出して笑った。何日ぶりに聞く笑い声だろう。視線が溶け合い、絡めていた指が離れた。ソファの背に体を押しつけられる。
「好きだ。春樹……!」
 苦しそうに言った新田の顔が迫る。
 キスの魔力に抗うことは難しい。流れにゆだねてもいいけれど、ゆっくりがいいと言った新田の気持ちも尊重したい。新田の胸を押そうとした手は、そのままシャツの生地をつかんだ。
 目を閉じきらないうちに口づけた。すぐに離れて瞳が同じ切なさを映しているか確認し、また触れる。
 息をするたびに舌や粘膜が欲しくなる。徐々に深いところで舌を合わせるうちに、抱きしめられていた。
 長いキスのあと、オレンジの香りをまとった唇が離れる。大きな両手で髪をすかれた。
「本当に、きれいな髪だ」
 髪をすいた手が春樹の顔を包む。触れるだけのキスをして新田が身を起こした。
 春樹も座り、一緒にキキョウを見た。
「お前に涙を拭ってもらったとき、自分だけがこだわっていたものが消えた気がした。過去もふたりのものと言ってくれる人に、この先いつ出会えるかわからない」
 窓からの風が強くなる。薄いカーテンが大きく膨らんで、波が引くようにベランダに吸い込まれる。
 すべてが凪いだ部屋の中で、「愛してる」を聞いた。


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