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第一話・焔 第四章・3
早い昼食のあと、学習塾を四軒回った。授業をサポートするところに、という稲見の意見に春樹も同意した。
該当する塾のパンフレットをめくる春樹に、運転席から明るい声がかかる。
「月謝制だから気軽に始められると思うよ。気軽にやめられても困るけど」
受講生の定員も少ない。塾に通った経験がないため、規模が小さいと気後れせずにすみそうだ。
「少し遠いのが難点だね。遅い時間に終わったときは気をつけないと」
パンフレットの裏表紙に塾の所在地と地図がある。都内には一軒しかなく、都心とは逆方向だ。移動時間もこの塾に向かうときが一番長かった。週末は仕事があるため、通うのは平日の授業後になるだろう。
「防犯用品は持ってる? ブザーとか、スプレーとか」
「ブザーがあります。た────」
高岡さんにもらいました、と続けることがためらわれた。
身を守れが口癖の高岡だ。調教師が商品に防犯用品を持たせただけなのに、何を躊躇しているのだろう。
「本当に持っているのかい? なければ支給するよ」
車がマンションの駐車場に入る。停めても稲見はラジオを切らない。機嫌のよさそうな顔をしている。
「あ、あります。これでいいですよね?」
バッグの隅に追いやっていた防犯ブザーを見せた。稲見は、上等、と言ってうなずいた。
「塔崎様の件は任せて。くれぐれも勝手をしないように。きみは突拍子もないことをするから冷や冷やする」
「言い付けは守ります。今日はありがとうございました」
「入塾の手続きが終わったら電話するからね。薬もちゃんと飲みなさい」
車を降りて深く礼をし、歩行者用通路を歩く。
接待要員を学業に励ませるからといって、高岡がいい人間なのではない。学校に通う年齢の者を大人の遊び道具に仕立てる男だ。
春樹の脇を一台の乗用車が徐行する。居住者用の駐車スペースに入った車から若い男女が降りた。春樹は駐車場の壁に背中をつけ、車からできるだけ見えない位置に移動する。
若い男はキーを愛車にかざして電子音を鳴らせた。大胆なワンピースの女性と腕を組んで歩いていく。
一瞬、男が井ノ上に見えた。
よく見れば男のジャケットはジップアップではなく、ジーパンの色も違う。似ているのはTシャツと短い髪だけだ。
胸を撫で下ろし、エントランスに向かった。ナイロン製のメッセンジャーバッグの上から、身を守るブザーを握った。
習慣で受付カウンターの女性に会釈する。丹羽様、と声をかけられた。
「新田様とおっしゃる方が、あちらでお待ちです」
女性の揃えた指先が示す先はロビーラウンジだ。ソファの端に新田が見えた。春樹を認めて立ち上がる。
どうしてか、足がとまりかけた。
(立ちどまるな。早く修一のもとへ行け)
善良で正しくて大好きな人が待っている。新田は壁一面の窓から昼間の陽を受けていた。男らしい輪郭がまぶしい。
光に満ちあふれたラウンジに、ぎくしゃくと進んだ。ソファの前に立つと新田が笑った。
「運動でもしたのか? 筋肉痛になったときみたいだぞ」
「じゅ、塾を探して……あちこち行ったから。どれくらい前からいたの?」
新田の笑顔が照れ笑いになった。
「三十分くらい前。受付の人に待ってもいいか訊いたら、俺さえよければって言ってくれたから。迷惑だったか?」
「迷惑なんて、そんな。えっと、じゃあ、上がって」
じゃあ、とは何だ。居心地が悪かっただろうに、三十分も待ってくれた新田に言う言葉ではない。
荒れた指が春樹の手に触れた。受付カウンターから見えないように手をつなぐ。
「俺にはお前しかいない」
茶色の瞳は窓の外を見ていた。見つめ合うと変に思われるという配慮だとわかる。
「だめだと言われないかぎり、待てるだけお前を待つ。そう決めてここに来た」
「修一……」
手を離して並んで歩く。春樹がカードキーをエレベーターにかざした。ふたりの時間がそこまで迫っている。
嬉しさと、奇妙な焦りが鼓動を速めた。
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