Cufflinks
第一話・焔 第四章・3
クリニックでは相変わらず、春樹の生い立ちを復習することに時間を費やした。
黒いモヤも痛みがあると言えばあれこれ検査をされると思い、言えずじまいだった。一度は病変かと心配したけれど、自分の体のことだ。手加減されたとはいえ勇次のような男ともセックスできるのに、心臓に問題があるとも思えない。
人に優しくされたり厳しく叱られたりすると不安になるんですね。
眼鏡がよく似合うカウンセラーにそう言われて、うなずいただけで終わった。
(あれは……不安なのかな)
間違っていないとは思うが、違う気もする。しかし「こんがらがったときの涙」などと言うのには抵抗があった。本当に頭がおかしいと思われてしまう。
調剤薬局の待合室で、塔崎との話を思い出してみた。頭痛がするまで考えても、鍵になる言葉すら出てこない。
稲見について駐車場に向かう。クリニックでの投薬は初めてだったためか、稲見がやわらかいトーンの声で言った。
「不安をやわらげる薬は飲んでいる子も少なくない。安心しなさい」
「違うんです。塔崎様とのこと……思い出せなくて……」
「覚えていないことはどうにもならないよ。きみはとにかく、自分のことをきちんとしないと」
はいと答える声が消え入りそうになる。
予定にない受診につき合ってくれる稲見にも、学業優先の契約を結ぶ高岡にも、いつまで世話を焼かせると思われているだろう。
最近、何かおかしい。今まで高岡の名に傷がつくなどと考えたことはなかった。
余計な感情を追い払うべく、意味もなくバッグの中を整頓する。高岡に渡された防犯ブザーが底に転がっていた。
月の下で光った双眸を思い描きそうになり、慌てて車の外を見た。
学習塾に向かうためなのか、前とは違う道を走っている。ひとつ向こうの交差点に見覚えがあった。確かあの交差点を曲がって一本都心寄りの道を行くと、高岡の自宅前に出るのではないだろうか。
高岡が住むマンションは隣接する建物より低い。忘れもしない手を入れられた日に見たビルがいくつかある。
稲見がこちらを気にしていないのをいいことに、きょろきょろしたときだった。
歩道に見慣れた人影がある。信号につかまりかけていた車が減速して停車し、よりはっきり見ることができた。
ひとりは高岡だ。サングラスをしていても、背格好や横顔のライン、街路樹にもたれる姿勢でわかる。
嫌というほど見てきたのだ。見間違えはしない。もうひとりは──
(井ノ上……?)
今日の井ノ上は軍靴のような靴を履いていない。明るい茶色の短い髪が、流行のスタイルにセットされている。ジップアップのジャケットに白いTシャツが映えて、背すじも真っ直ぐだ。淡い色のジーパンも清潔な感じがする。あれが新田と春樹を襲った暴漢のひとりだとは、誰も思わないだろう。
高岡はいつものラフなスーツだ。下を向いて煙草を取り出す。素早く、かつ自然な動きで井ノ上が火をつける。高岡は素直に火をもらうと、さして興味なさそうな態度で往来を行く人々を見た。井ノ上は姿勢を崩さずに何か話している。
何を言われたのか、高岡が顔をはっきりと井ノ上に向けた。煙草を投げ捨ててサングラスを外す。
離れていてもわかるほど、高岡は明確に井ノ上を睨みつけている。怒ったときの茶灰色の瞳は、近くで見ると怖い。日本人離れというか、人間離れしているからだ。時間帯によっては銀色がかって見えることもある。
狼に似た目を近い距離で見ているはずなのに、井ノ上は少しもたじろいでいない。
そういえば井ノ上は、須堂を警戒しても恐れなかった。あの夜一緒にいた暴漢が平謝りに謝った元暴力団関係者を、何とも思っていないふうだった。
時間がとまったように動かないふたりを見ていると、カーラジオを触っていた稲見が声を出した。
「あれ……? あそこにいるの、たか」
「おっ! お腹ぺこぺこです! 前に買っていただいた牛丼おいしかったから、一緒に食べたいです! 稲見さんと!」
春樹は歩道に面した窓を覆うように、身振り手振りを交えて話した。稲見が忙しくまばたきする。
「いいけど、早くないかい? 塾を少し見てからでも」
「今食べたいんです。連れてってください! あっ! 青になりそうですよ!」
車の信号が青になり、稲見の関心は前方に移った。春樹は小さく安堵の息をつく。
『磯貝の名は今ここで忘れろ』
竹下の復職を願って社に行った帰り道、高岡は車の中でそう言った。須堂の口ぶりでは、井ノ上は磯貝という人物とつながりがあるようだ。
磯貝のことを誰にも言うなと高岡は言った。約束しろ、とも。
傷の残る手で春樹の首を絞めながら言ったのだ。よほど隠したい相手としか思えない。
高岡が隠すものを社に知られたくない。
少年に売春行為をさせましょうと言う会社だ。高岡のことなど隅から隅まで調べているだろうし、高岡をかばう必要はどこにもない。
ないとわかっていても、もっと速く車が進んでくれるようにと願った。
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