Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


 土曜の朝が美しいと思えたのは、いつ以来だろう。
 春樹は寝室の窓を最大限に開けた。風はそよとも吹いておらず、カフスボタンに似たスカイブルーの空が、ベランダにおいでと言っていた。
 はだしでコンクリートの床に下りようとした。熱くて無理なのでスリッパを履く。
 うんと高く手を上げ、背や腹だけではなく体の側面も伸ばしてみた。ラジオ体操でもしたい気分だ。
 空をつかむ真似をして飛び上がり、勢い余ってベランダの手すりに軽くぶつかる。最寄り駅周辺にはすでにたくさんの人がおり、街路樹から小鳥の群が飛び立つ。
 目を閉じて朝の空気を吸う。九時を回っていても充分にすがすがしい。手すりに腕を乗せて外を眺めた。先ほど飛んでいった鳥たちが旋回して街路樹を目指す。どの木にとまろうと相談しているのか、さえずりがここまで聞こえてきた。
 十六歳の誕生日を迎えるまで、週末は楽しくもあり退屈でもあった。誰とも会う予定のない週末はひとりで部屋にいることが多い。目的もなくテレビを追うより、学校に行きたかった。
 男相手の売春をするようになってからは、週末は一分一秒でも短く終わってほしい日になった。金曜の夜から胃痛と吐き気に悩まされ、頻繁に寝返りをうった。
 朝の陽射しがどれほど明るくきれいでも、写生したくなるような雲が浮かんでいても、早く客と会う時間になってくれ、一刻も早く解放してくれと願い、ベランダに出ることもほとんどなかった。
「いい天気……!」
 太陽に向けた目を閉じたとき、腹が鳴った。朝から空腹なのは久しぶりだ。
 着替えるときも、顔を洗うときも、気持ちが軽かった。昨日までは色彩の乏しいリビングが好きになれなかった。カウチソファの硬さも気に入らない。照明も天井に埋められていて『家』という感じがしない。デザイン性を優先させた住まいになじめなくて、前の部屋を思い出してはため息をついていた。
 今朝目が覚めてカーテンを開けたら、部屋じゅうを光のカケラが舞った。どこを見てもキラキラして、ようやくこの部屋も悪くないと思えた。
 昨日、新田とは校門で別れた。駅ビルまで一緒に行くこともなく、週末に会う約束もしていない。
 自転車に乗るとき、新田はどこかすっきりしていた。涙を見せた気恥ずかしさはなく、よく眠ったあとのような顔だった。
 ふたりに重くのしかかっていたものを、ふたりで取り去ることができたのだ。目にするものすべてが輝いている。
 インスタント味噌汁の袋を破ろうとしたときだった。受付カウンターを通さないときの、インターフォンの音がした。




「これで足りる? 足りなくても我慢しなさい。昼にどこか寄るから」
 せかせかした稲見の声と共に、コンビニ袋が春樹の膝に乗った。惣菜パンがふたつと牛乳が入っている。
 土曜の朝に訪ねてきた稲見は、学習塾を数軒回ると言った。学習態度に問題があると、学校が父に告げたためだ。
「勉強もそうだけど、ケアは自分でしないと。クリニックに通っているとばかり思ってたよ」
 部屋に上げた際、クリニックには行っているかと訊かれた。口ごもる春樹が車に乗るまで、数分とかからなかった。
「食べて、食べて。今日は忙しいからね」
 シートベルトをする稲見は、エンジンをかけてラジオをつけて時計を見てと忙しい。身支度をしてすぐに出てきたのか、石けんの香りがしていた。
「ごめんなさい……今日もお仕事なんですよね? クリニックまで送っていただいたら、あとはひとりで」
「塾を決めるまでが仕事だよ。通院も勉強も自分のためだ。謝るより食べなさい」
「……はい」
 惣菜パンにかぶりつく。空だった腹に食べものが入り、のん気な音がした。稲見がラジオの音量を小さくする。
「きみが高岡さんに躾けられていなければ、社も塾を探したりはしないのだけどね」
 変なところで高岡の名が出たので、パンが喉に貼りつきそうになった。牛乳で飲み下してルームミラーを見る。
「どういう……僕の成績が悪いと、高岡さんの名前に傷がつく……とか……?」
 口にしてすぐ、不必要な言葉だと思った。
 取り消すわけにもいかず、できるだけ前を見たままパンを食べる。
「傷などつかないよ。高岡さんとの契約条件には学業優先がある。こういう仕事だから勉強どころではないときも多い。彼が担当しない若い子のほとんどが退学するか、進学をあきらめるかだ。彼はそれを潔しとしない」
 塔崎を初めて接待した日、やはり車中で稲見が言っていた。学業優先は高岡からの絶対的な条件なのだと。
 胸に黒いモヤができる前に、稲見が口を開いた。
「そうそう。春樹くん、塔崎様と何かお約束をしたの?」
 この間塔崎に抱かれたとき、記憶の一部が欠けた。帰りのエレベーター内で何かを言われたと思う。
 あれから何度思い出そうとしても無理だった。自分は約束をしたのか────?
 適当なことを言って食い違っていても困る。正直にわかることを言うしかない。
「……ごめんなさい。あの日……二回……して、ぼうっとなって……覚えてないんです」
 車が信号停止して稲見がこちらを向いた。険しい表情だった。
「しっかりしてくれないと。遠回しに、色よい返事はまだかとおっしゃっているんだよ。困るなあ」
「色よい返事…………?」
 返事を待たれていることを言われたのか。時間を戻してみようとしても、焦るばかりで何も浮かばない。
 どこか、ホテル以外のところに行こうとでも言われたのだろうか。あるいは大仰な贈り物をしたいとか……?
 会う場所を決めるのに断りを要するとは思えない。プレゼントこそ社を通して贈ればいい。
 何を言われたのだろう。一度のセックスで百万円をポンと出す上客から、いったい、何を。
「ど、どうしましょう。僕からお訊ねしたほうが」
「だめだめ。それとなく訊いておくから。行き違いを正すのは僕の仕事だ。お願いごともそうだが、お約束も気軽にしてはだめだよ。いいね?」
「はい……」
 かなり先のほうにクリニックが見える。灰が降るように疑念がたまり、パンもひとつしか食べられなかった。


次のページへ