Cufflinks
第一話・焔 第四章・3
あの二万は暴漢に巻き上げられた。修一に迷惑かけたくないので金を入れて返した。
そう答えれば、新田はそうかと言うだろう。こびりつく疑問を抱えたまま、優しく接する姿が容易に想像できる。
春樹が針の先ほども考えなかったことに、新田は縛られていたのだ。あの夜から。
長すぎる沈黙を破ったのは新田だった。
「春樹! そこにいてくれ! どこにも行くな!」
電話が切られてからも春樹は動けずにいた。携帯電話も閉じずに立っていることしかできない。
新田が眠れぬ夜を過ごしていたとき、自分も苦悩したと思っていた。酒の力を借りて、新田につらいと言った。高岡の手まで煩わせて大騒ぎした。今もこうしてぽつんと待っている。
階下から階段を駆け上がる音がした。怪我をした新田が春樹のために走った夜が再現される。
通学鞄を放り出した。携帯電話も落とし、先ほどまでいた指導室に飛び込んだ。室内ロッカーの奥に隠れる。
二万円が消えた財布だけを返すという、誰でも思いつくことができない。財布自体、返す必要などなかった。
足音が大きくなり、上履きが階段のそばで鋭く鳴る。春樹が落とした鞄と電話機に気づいたのだろう。
「春樹!! どこだ! 返事をしてくれ!!」
暴漢から逃れるには金を払うのが一番だ。しかし財布には二万円が丸々残っている。金があるということは、正義の味方が現れて春樹を救い出したか、二万円に代わるものを春樹が提供したとしか考えられない。春樹は男同士で利用できるホテルに入ろうとしていた少年だ。興味本位で性的な行為を強要されたか、見知らぬ誰かに貸し出されたのかもしれない。自宅に電話をかけてきたのも、卑劣な連中に脅されたからではないのか──
新田はあらゆる可能性を考え、否定することを繰り返してきたのだ。逃げさえしなければと思ったに違いない。
今日になって思いきって訊いてみた。春樹が押し黙ったため、悪い想像が怪物のようにのしかかった。ここは三階で廊下の窓も開いている。鍵がないと出られない屋上ではなくても、飛び下りることはできる。
離れたところでは春樹が早まった行動に出る。そこまで考えて、まず会って訊こうとしてくれたのだ。
指導室の引き戸が外れそうな勢いで開いた。真っ青な顔をした新田が自分と春樹の鞄を投げ出し、机に脚をぶつけ、戸も閉めずに春樹を抱きしめる。
「春樹……!! よかった……!」
泣きそうな新田の声が、春樹の推察が当たっていると告げていた。
頬に触れる汗の温度に視界がゆらぐ。全速力で走ってきた新田の、熱い皮膚を覆う汗が冷たかった。
「よ、よかった……変なこと想像して……俺……」
いつもより強く肩をつかまれる。新田の顔は紙のように白くなり、ひたいには汗が光っていた。
「修一、聞いて。あのお金は」
「言うな! 何も言うな。許してくれ……!!」
新田が床にへたり込んだ。ロッカーの陰で膝を抱えていた春樹の足に、冷たく湿る両手を重ねる。
「信じていればこんなこと訊かない、愛してるなら未来だけを見るはずだ。そう思われるのが怖くて言えなかった。でも、もしも、万が一……傷を負っていたら大変だと思って……それ、で」
背を丸めて震える新田を、窓から射す夕陽の帯が照らす。敬虔な祈りを捧げる人のようだった。
「修一……聞いて。お願い」
新田の顔が上がる。まつ毛が濡れていた。喉仏が何度も上下に動く。
「あのあと、修一を殴った男が財布からお金をとった。とったお金を仲間の男に見せて、ふたりの関心が僕からそれた。その隙に近くの店に助けを求めたんだ。あいつらは店の中までは入ってこなくて、少し待ってホテルの前に戻ったら……空の財布があった」
茶色の瞳がせわしく揺れる。理性を感情に勝たせようとしている目だ。
「あんなことで終わるのが嫌だった。元どおりになればいいと思って、深く考えずに二万円を入れて返した。許してと言うなら僕のほうだよ。こんなに苦しめるなんて思わなかった」
怖がらせないように、羽毛を集めるように新田の両手を包んだ。
「愛してるなら未来だけって、どうして? 過去もふたりのものだよ。忘れるのもやりなおすのも、ふたりで決めたい」
「春……樹……」
新田の眼差しが切ないものになる。春樹は微笑み、苦しみの底でもがく新田を見つめて言った。
「好きになる、愛するって、そういうことだと思う」
「俺でいいのか……? 許してくれるのか──?」
自信を失った、弱々しい声だった。たまらなくなり、床に座ったまま新田の背中に手を回した。夏服のシャツを通して筋肉の強張りがわかる。何日もこんな緊張を強いていたのかと思うと、自分で自分を殴りつけたくなった。
「修一は許しが必要なことなんてしていない」
「でも……逃げた…………俺だけ」
新田の喉仏がまた上下に動いた。白目が赤くなる。唇が小刻みに震えて、うつむいた顔を透明な液体が伝った。
「動かないで……」
悲しげな弧を描くラインを、親指で拭った。初めて人の涙に触れる。親指だけでは乾かない線に、他の指の背も這わせた。手の甲も使い、そっと、桃の産毛を撫でるように拭きとっていく。
こんなに愛おしいものだったのか。好きな人の涙を拭うという行為に、胸が熱くなった。
春樹はもう一度新田の背に手を置き、引き寄せながら抱きしめた。
「修一が刺されたりしたら、僕は学校に来られなかった」
春樹の背中に新田の指先がゆっくりと触れた。初めて抱きしめ合ったとき以上に、怖がり、ためらう仕草だった。
「何も間違ってないし、壊れてない。大丈夫だよ」
「春、樹……!」
互いの上半身が密着した。骨がきしむ抱擁ではない。素肌で抱き合うより近いところで体温を感じ、鼓動が同じ速さになる。何でもないことなのに、ひとつになれたという感覚が強い。
指導室を彩る斜めの光がそこかしこに影を描く。
影の色が濃くなるまで、優しい熱を分かち合った。
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