Cufflinks

第一話・焔 第四章・3


「どうしようもないことがあるのはわかる。でも、家には帰って。森本も心配してる」
 気のいい、小さな目の奥がささくれた。強い力で春樹の肘がつかまれる。
「何がわかるんだ! 丹羽はお母さんがいなくてお父さんと別々に住んでても、金はあるじゃないか! うちは下着も買えなくなった。おれが何も知らないで、金のかかる高校に入ったりしたから……!」
 はっと息をのんだのは瀬田だった。恥ずかしさを前面に出す顔になり、春樹の肘をつかむ手が離れた。
「僕に何か言って気が晴れるなら、好きなだけ言っていいよ」
 大きな体がちぢこまる。瀬田は目をつぶって首を横に振った。
 春樹の担任も瀬田の担任も、生徒の背後にある荒い波を見ていた。子どもをのみ込むものに怒りをぶつけていた。
 どうにもならないときこそ、何が大切かを見極めなければならない。
 瀬田には生きて共に暮らす家族がいる。遺影の母と、身勝手で非道な父しかいない春樹とは違う。
「弟さんたちが夜遅くなっても帰らなかったら、瀬田くんはどう思う?」
 下へ、内側へと向いていた瀬田の顔が上がった。恐ろしい未来を見せつけられた表情になっていた。
「帰らなきゃだめだ。家族の代わりなんてないよ。どんなに頑張っても手に入らない」
 春樹は瀬田の二の腕から手を離した。無骨な手が制服の汚れを払う。顔もこすり、大きく息を吐いた。ネクタイを締めなおし、学校指定の重い通学鞄を提げて口を開いた。
「おれ、二学期からは通学できないと思う」
 悲しそうな声ではなかった。春樹は何も言わずに瀬田を見ていた。
「森本には言わないでくれ。自分の口で話したいんだ」
「言わない。約束する」
 前かがみになっていた瀬田が真っ直ぐになった。顔をこすったためなのか、頬に健康的な血色が戻っている。
「ありがとう、丹羽」
 瀬田の目に優しい色が戻る。声の調子もやわらかくなった。
 階段を下りていく瀬田を見送る。やりきれなくて、壁を拳で叩いた。
 夏休みが終わったら、あの頼もしい体躯を見られないのだろうか。春樹の顔を女みたいだと言わなかった友達と話せなくなるのだろうか。瀬田と中学が同じ森本はどれほど口惜しいだろう。
 他人事ではない。来月には定期テストがある。クラスで最下位の点数では進級も危うい。
 何のために週末を客と過ごした。泣きそうな気持ちで体を開いたことが無駄になってしまう。
 鞄から携帯電話の振動音が聞こえた。着信だとわかり、大急ぎで通話ボタンを押した。
「ごめん、校内でかけて。どこにいる?」
 小さかったけれど新田の声だ。春樹は誰も階段を上がってこないことを確認し、廊下の窓から外を見た。
「指導室の前。小テストが散々で、しぼられてた。修一はどこ?」
 遠くからホイッスルの音がする。電話の向こうから聞こえるのか、校庭から聞こえるのかはっきりしない。
 外を見ることをやめて電話機を耳に押しつけた。
「修一? どうしたの? 話しにくいとこにいるの?」
「……ごめん。さっきのメール、なかったことにしてほしい」
 ひそめられる声からは、メールの返信がすぐになかったことへの怒りは感じられなかった。
 もとより新田はそんなことで怒る男ではない。小声に迷いと後悔が滲み出ているようで、春樹の声も不安定になった。
「い、いいけど……どうして? 用事ができたの……?」
 取り戻したばかりの新田を手放したくない。数回ホイッスルが鳴ったあと、違う、と聞こえた。
「会って話すべきことなんだけど、会うのが怖い……信じてくれ。お前を不安にさせるつもりはないんだ」
 動揺が押し寄せてくる。わかるのは嘘がないということだけだ。春樹はふたたび窓を見た。窓を開けて、校庭や校舎、用具倉庫、駐輪場を見る。何とかして新田と今話さないと、苦しいときへ逆戻りしそうだった。
「わかった。それなら、このまま電話で話そ?」
 校庭からホイッスルが聞こえた。もうすぐ夕方でも空は明るく、空気にも真昼の暑さが残っていた。乾いた風が放課後特有の匂いを運ぶ。
 小さく息を吐くような音に続けて、感情を懸命に抑える言葉が届いた。
「あの……あの夜……俺がホテルに入ろうと言った夜、どうやって……助かったんだ?」
「え────────」
 訊かれると思っていなかった。訊かれると思っていなかった自分が信じられない。
「ずっと考えてる。お前が持ってきてくれた財布、二万円入ってた。俺が入れておいたのと同じ金額だ。一銭も減ってなかった。ないものと思ってたから……春樹、教えてくれ。あのあと……俺が逃げたあと、何があった……?」
 今ほど自分をばかだと思ったことはない。
 あの夜、ホテルの前で新田の財布を拾ったのは須堂だ。金髪の暴漢から二万円を返されたのも須堂だった。
 須堂から手渡されたものは財布と紙幣とを重ねたものだった。財布に現金をしまうことなく返してくれたのに、春樹はわざわざ元どおりにして新田の家まで持っていったのだ。
 めまいがして、しゃがみ込みそうになった。


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