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第一話・焔 第四章・3


 次の週の金曜日、春樹は担任に二度、大声で叱られた。
 一度目は抜き打ち小テストの答案を返されるときで、二度目はまさに今だ。
「この間何と言われたか、覚えているのかッ!!」
「はい……!」
 指導室の長机を、担任が力をこめて拳で叩く。頬は痙攣して眉は鬼か武士のように跳ね上がり、顔全体が赤くなっていた。首には膨らんだ血管が走っている。
 もう一度ドンと机を叩かれる。椅子から尻が浮いてしまいそうなほどの音だった。
 今朝、物理と英語の小テストがあり、下校間際に返却された。英語は平均点以下、物理はクラスで最下位だった。
 テストで最下位になったのは分数のテスト以来だ。ショックは隠せない。不出来な自分も嫌になるが、担任の怒りに圧倒されていた。
 担任は物理の教師でもある。白目は充血し、頭のてっぺんから蒸気が出そうだ。
「前回の問題を覚えているか!」
 普段は温厚な担任の怒鳴り声に、春樹は小さくなっていく。
「覚えてます……」
「覚えているなら、同じ問題で間違えるのは何故だ!!」
 復習していないからだ。わかるまで勉強しておかなくてはならなかった。自習の機会はあったものを、春樹はその日の授業を少しばかり振り返るだけで、テレビを見たり、電話で新田との短い会話を楽しんでいた。
 新田の声が耳に残るうちに、ベッドに入って眠ってしまう日々だったのだ。
「ごめんなさい──」
 机が数センチ春樹のほうにいざる。椅子を後ろに倒しそうな勢いで担任が立ち上がった。
「いつも謝るが、謝って理解できるなら学校は要らない! 自分のための勉強だという自覚を持ちなさい!」
「は、はいっ……!」
 これほど怒る担任は初めて見る。ありったけの感情がこちらを向いていた。
 担任は春樹の顔を見据え、深呼吸した。眉間には彫刻刀で彫ったようなしわができ、顔の赤色は少しも薄まることがない。眼光などは高岡よりも鋭いのではないだろうか。
 怒りをむき出しにする目は、春樹と、一度も学校に顔を出さない父を睨んでいる気がした。
「毎日時間を決めて学習しなさい。自分に負けてはいけない。わかるね」
 厳しく光る目が、わずかに潤んでいた。




 廊下に出ると、担任は念押しすることなく職員室に向かった。春樹はスリッパの音が階段を下りるものに変わるまで、深く頭を下げていた。
 叱られてもその場さえおさまればいいと思うところが、春樹にはあった。反抗はしないし心の中で舌を出すこともない。ただ、正しくても激しい感情に揺さぶられることが苦手だった。
 担任は目に涙をためて叱った。今まで形だけ謝ってきたことが悔やまれて、胸がつまりそうになる。
 ようやく顔を上げたとき、第二指導室の引き戸が開いた。出てきたのは瀬田と、瀬田のクラスの担任だった。廊下に立つ春樹に気づいた瀬田が下を向く。制服のままどこかで眠ったのか、服地はしわだらけで通学鞄も汚れていた。
 瀬田のクラスの担任は小柄な女性だ。非常に大柄な瀬田の胸までしかない。細くて小さな体で、腕をぶんぶん振って話す。瀬田はうつむいたままだ。
 指導を受ける瀬田を見るのは気が引ける。階段に向かうと携帯電話が短く振動した。踊り場に入って電話機を開く。

『一緒に帰らないか?』

 新田からのメールだった。すぐに了承の返信をしようとしたとき、廊下から女性の怒声が聞こえた。
「お金のことを、あなたが心配する必要はありません!!」
 電話機を持ったまま壁の向こうを覗く。顔を真っ赤にした教師の前で、瀬田が頭を垂れている。教師の握りしめた拳が震えていた。言い足りないことが山とありそうだ。何かをのむようにして、女性教師は瀬田から離れた。
 瀬田の担任は春樹がいる反対側の階段に向かった。瀬田は廊下を見たまま立っている。春樹が踊り場にいるため、担任が階段を下りてしまうまで待っているのだろう。
 春樹は一度携帯電話を見て、電源ボタンを押した。足音をたてないようにして瀬田に近づく。
「……瀬田くん」
 呼びかけに返事はない。瀬田は鞄を抱え、担任が去った階段へと歩き出した。
「待って!」
 瀬田が足を速める。階段の手前で追いついた。振り切られてしまうと思い、力いっぱい瀬田の二の腕をつかむ。
 驚いた瀬田の体がふらつき、廊下の壁に大きな背中がぶつかった。
「放してくれ。バイトに行かないと」
「トンカツ屋さんだけにして、ちゃんと帰るって約束して」
 四角い顔に赤みが差した。苛立った目を階段に向け、口を真一文字に結ぶ。
 間近で見た瀬田の制服は汚れていた。体臭もきつい。トンカツ屋以外のアルバイトに時間をとられて、生活の質が落ちているのではないだろうか。
「頼む……見逃してくれ。丹羽を突き飛ばしたくない」
 巨漢に近い瀬田が本気を出せば、春樹など廊下に転がされてしまうだろう。春樹は両手で瀬田を押さえつけた。熱のある視線がまともにぶつかる。どちらも退こうとしなかった。


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