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第一話・焔 第四章・3
タクシーで新しいマンションに帰った。エントランスを通り、受付カウンターの脇にあるロビーラウンジに入る。
ホテルのラウンジに似たスペースには、大きなソファと雑誌のラック、純白の植木鉢、中庭を臨む壁一面の窓がある。ないものは灰皿だけだった。
新田と並んでソファに腰を下ろす。浅く腰掛ける新田が、天井や観葉植物を見回した。
「すごいところだな。広いし、きれいだ。管理人さん以外に人がいるマンションなんて初めてだ」
二十四時間受付可能のカウンターには今も人がいる。ここからでは、カウンターの縁が一部見えるだけだった。
「夜の十時だろ。ガードマンもいるし、お父さんの愛情なんだな」
思いもしなかった言葉だ。新田と視線が合う。
「家政婦さん、辞めさせられたって本当なのか」
「うん……でも、これだよ。逆効果だと思う」
タクシー内で自立を促すための引越しだと話してあった。竹下の解雇、仕出し弁当を配達してもらっていること、洗濯代行サービスを利用していることも話した。至れり尽くせりのマンションで自立もないものだ。
「昔からいた家政婦さんと業者は違う。お前が心療内科にかかってても家政婦さんを遠ざけたってことは、何かを我慢させたいからだと思う。そのためにもまず、安全を確保しようとしたんじゃないか」
うなずくことはできなかった。新田が本心で言っていると思えないからだ。
大切なものは金ではなく会話だ。頭を撫でる手と叱ってくれる言葉なのだと、新田は知っているはずだ。
「春樹は愛されていると思う。こういう愛情もあるんだ」
膝の上で手を組み、噛みしめるように話す。自分にも言い聞かせるようなしゃべり方だった。
こんなことを話したいのではないし、聞きたいのではない。他に取り戻すべきものがあるのに、唐突で強引な転居に正しさを見つけようとしてくれる。
アルコールを利用したから元どおりになるものではないだろう。新田は変わらなかったのだ。
新田のレポート用紙を拾った日、春樹は用具倉庫の戸口でつまずいた。ガタガタと、かなり大きな音がした。
春樹が転んだのかもしれない。そう思って新田は足をとめたのではないだろうか。
腰をずらして新田を正面から見る。利発な目に光が戻っていた。光に導かれて、春樹の胸にも灯りがともった。
「部屋に上がって。今夜は一緒にいて」
聡明で茶色の瞳が揺れた。頭も左右に振れる。春樹の手に、大きな手がそっと重なる。
「まだだめだ。俺がお前にひどい態度をとったことは事実だ。これで許してもらったら、俺は何も反省できなくなる」
「反省とか許すとか、そんなのどうでもいい。修一もつらそうだった。怪我だけの痛みじゃないことくらい、僕にもわかる。一緒にいてほしい。もっと話したい」
身を乗り出す春樹の手に、少しだけ力が加わる。
「急には嫌なんだ。ゆっくりがいい。俺の気持ちは変わらないから……だめか?」
弾むように手を叩かれ、春樹はうなずいた。
陽だまりに似た優しい熱があればいい。鞭でもなく、雪原で敵の群に挑む狼でもない。新田といれば幸せなのだ。
「自転車取って、そのまま帰る。明日、学校でな」
ソファから離れる新田を見て、ざっと鳥肌が立った。軍鶏の小さな瞳が新田を狙うかもしれない。
「待って!! 自転車はだめ!」
ロビーラウンジに春樹の声がこだました。受付カウンターの女性がこちらをうかがう気配がする。
「夜に乗らないで。盗られるのが嫌なら、高岡さんの言ってた業者に頼むから」
「あの人に頼むくらいなら盗まれるほうがいい。無灯火にはしないし、大丈夫だ」
「お願い、言うとおりにして……!」
新田は困惑しながらも、わかったと言った。春樹の真剣さに負けたのだろう。
「わかった。今夜は乗らない。電車で帰る」
出入り口まで新田を見送る。新田が振り返って手を振った。
溌剌さの代わりに、曖昧なものを許す笑顔があった。パーカーが風になびいて消えていく。
前より痩せているはずなのに、新田の背中は広く見えた。
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