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第一話・焔 第四章・2
「静かにしていていただければ、すぐにすみます。ただのお話ですから」
粥川には春樹を痛めつけようという意思はなさそうだった。
同じフロアに稲見がいるのだ。とんでもないことはしないと思うのだが、三浦の仲間だ。油断はできない。
抑えた迫力が逆に恐ろしく、春樹は隅に身をちぢこませた。粥川が片手を春樹の横につく。
「は、話って、な────」
頬骨に硬いものが当たる。一度離れ、ゆっくりと目の前に持ってこられた。ピントが合うとボールペンだと判明した。
芯を出したペンが頬に押しつけられる。先の尖った部分が下まぶたに触れた。
「僕は一度だけ、人の目を潰したことがあります」
血が引く音もしない。胃がぎりぎりと締めつけられる。
「こんなものは使いませんでしたがね。怖かったですよ。潰されるほうはもっと怖かったでしょうね」
粥川の頬にへこみができた。狂った男を童顔に見せるえくぼだ。微笑んだまま春樹の顔を覗き込んでくる。
視線がぶつかり、寒気立った。こんなに瞳の小さい目だったろうか。
色こそこげ茶色だが、闘鶏に使われる軍鶏のような瞳だった。
「稲見と何を話しました?」
「か、家政婦さんが復職したので、新しい職場で撮った写真を、見せてもらっただけです」
壁についていた粥川の手が離れた。と思ったら、右手を捻り上げられる。
「いった……!」
「力を抜いて。関節を痛めます」
顔から離れたボールペンで、春樹の右手首の内側に文字が書かれた。
僕は嘘つきです
自由になった手を見て、はっきりと血の気が引く音がした。
「どうも緊張されているようだ。座りましょうか」
両肩をぐっと押さえられた。便座の蓋に尻が落ちる。粥川の顔からはえくぼが消えていた。
「目を潰したときは本当に恐ろしかった。僕はサディストではないし、相手には何の恨みもない。三浦様の命でなければ逃げ出していたでしょう」
三浦に言われれば何でもする男が肩から手を離さない。胃の痛みが強くなり、歯の根が合わなくなってきた。
「僕はその日、何も食べられなかった。食べても吐いてしまうのです。あれはつらかったなあ」
話の内容に不釣り合いな口調だった。聞きようによっては楽しそうにも感じられる。
「あのつらさは一度でいい。僕に野蛮な行為をさせないでください。稲見と何を話したのかすべて話していただければ、誰もつらい思いをしませんよ」
粥川が肩から手を放す。春樹からは少しの距離もおかず、感情のわからない目で見下ろしてきた。見た目は軍鶏に似ているのに、血の通わない感じは三浦とそっくりだった。
「残さず話してください。丹羽さん」
「引越し先で困ることはないか、と、家政婦さんは元気でやっているようだと……それから、仕事の話をして……」
そのあと、例の男娼について話した。十中八九粥川が連れ去り、三浦にひどい仕打ちをされたであろう男娼のことを。
あれを話していいのか。粥川が社から聴取されているなら、男娼の件を隠したら変に思われる。
粥川の人差し指が春樹の右手首を指す。目は笑っていないのに、頬には再びえくぼが刻まれた。
「あなたは落書きですむが、新田修一は頭を打つかもしれない」
三浦の下僕が扉に背中をあずける。腕を組んで春樹を見据えた。
「僕は偶然、あのボーイが転倒するところに居合わせました。冷やりとしましたよ」
やはり粥川が一枚噛んでいた。三浦の遊びだったのだ。偶然だなどと、よくも抜け抜けと。
うずくまる対戦相手に乗った軍鶏が、高らかに勝利を宣言していた。
「ボーイの退院が近いことは知っています。何か言っていたか、聞いていますか?」
「いいえ」
「本当に?」
粥川を見たまま深く息をする。抑えきれない怒りのためか、呼吸音が震えた。
「本当です。当日のことは覚えていない、としか言わないそうです」
粥川の眉がやわらかいラインになり、口もとがゆるんだ。
「信じましょう。あなたが静かにしていれば、新田修一は無事なのだから」
人の皮を被った魔物を見ていたくない。春樹はトイレの床を睨みつけた。
爬虫類男を主人と慕う、人間のクズに新田の名を口にされた。それだけで大切なものを汚された気がする。胃が熱くなり、制御不能の言葉が飛び出しそうになる。
(修一に指一本でも触れてみろ。お前の目玉にペンを突き立ててやる)
物騒な言葉をつなぎとめていた春樹に、もうひとりの社員の声が届いた。
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