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第一話・焔 第四章・2
「────くん! 春樹くん、どこだ? 春樹くん!」
稲見が捜しにきたようだ。粥川が扉を開いて個室から出る。
背後を隠しもしない堂々とした動きに、うろたえたのは春樹のほうだった。せっかく開いた扉をしめて鍵をかける。
足音が急に大きくなった。稲見がトイレに入ったのだろう。
「粥川! 春樹くんを見なかったか」
「個室に誰かいるようですが。丹羽さんが来ているのですか?」
「渡したいものがあって呼び出したんだ。おとなしそうに見えてちょこまかするから、あの子は」
ちょこまかして悪かったな。
「お昼はどうされます? 僕のことではご迷惑をおかけしましたから、よければご一緒に」
「途中で適当に食べるからいい。お前も災難だったんだ、気にするな」
災難ではないと言えたら、すかっとするだろう。稲見の関心は個室に向けられているのか「失礼します」という粥川の言葉にも生返事だ。
粥川の靴音が消えてから扉を開けた。一瞬ばつが悪そうな顔をした稲見が、両手を上げてにこやかに笑う。
「こんなところにいたの! 捜したよ。具合でも悪いのかい?」
「少し冷えただけです」
ぶっきらぼうな答えだったが、稲見は春樹の背を軽く押して洗面台に向かわせた。
「ここは空調完備だからね。それでも気をつけてくれないと。さ、手を洗って」
眉間にしわができるのが自分でもわかった。稲見は腕時計を見て、鏡の前で身づくろいする。
「それはそうと、高岡さんと最近会った?」
ハンカチを落としそうになり、腹にくっつけて受けとめた。
稲見を盗み見ても、鏡に顔を寄せて生え際の白髪を抜いているだけだった。
「……どうしてですか?」
高岡は新しい部屋の合鍵を持っていない。尾行して春樹の新住所を知った。高岡をかばうわけではないが、部屋に来たことを正直に言うのはためらわれた。
「あの、高岡さんがどうかしたんですか」
稲見が鏡を通して春樹を見る。お人よしな表情に変化はないが、春樹の鼓動はマラソン直後のようになっていた。
「上の者に直談判されたようなんだよ。竹下さんの復職の件で」
「直談判……高岡さんが?」
「家政婦が復職したとお知らせしたいが、連絡がとれない。きみからお伝えしておいて。ああ、明日の服装はいつもの制服に近い感じで。今くらいの時間に僕が迎えにいくからね」
急かされるように背中を押される。春樹はトイレから出たところで振り返った。
「竹下さんのこと、本当ですか? 高岡さんがそんなこと」
「又聞きだから正確にはわからないよ。お帰りになったら直接訊きなさい」
「お帰りって」
稲見はもう一度腕時計を見る。スーツの内に手をやり、写真が入っていた封筒を出した。
「前にも連絡がつかないことがあってね。そのときは海外に行かれていた。大事な写真だ、忘れちゃだめだよ」
渡された封筒を持って立ちつくした。エレベーターホールに急ぐ稲見から呼ばれるまで、突っ立っていた。
春樹はシャープペンシルを放り、天井を仰いだ。
椅子を回転させながらノートを見る。相変わらず教科書の簡易版だった。公式を書き写してあるだけで、理解を助けるものではない。授業内容も書きとめてはあるが、復習時に記憶をたどる手がかりになるだけだ。
新田も勉強しているかと考えかけ、かぶりを振った。今は新田を想うときではない。小テストの結果は惨たんたるものだったのだ。
教科書とノートを伏せて問題集を開くが、すぐに音を上げた。
「ああもう! 無理!」
立ち上がって窓辺に立つ。雲は薄く、引き伸ばした綿菓子に似ていた。白く頼りない綿を透かす日光が力強い。雲があるのに、手をかざさないと目が痛くなる。
『あなたは落書きですむが、新田修一は頭を打つかもしれない』
右の手首を見る。内側に書かれた卑劣な落書きは、帰宅後に石けんで洗い流した。こすりすぎて赤くなっている。
会社で見た粥川の瞳が怖い。情とは無縁の、軍鶏としか思えない目だった。
机の隅に置いた携帯電話を開いた。会社を出たところで『T』に発信してみたが、電波の届かないところにいるか……というアナウンスが流れるだけだった。
高岡に相談しても新田の安全にはつながらない。春樹が何もしないのが一番なのだとわかっている。わかっていてもかけずにいられなかった。
前にも連絡がとれないことがあったとは本当だろうか。大の男が取引先に何も言わず、連絡不能になるなんて。
いい加減な男なのだ。高岡の経歴書を思い出せ。輝かしかったのは有名企業に入るまでで、退職してからは奇妙なものだった。働いた期間より空白期間のほうが長い年もあった。
竹下の復職についてもそうだ。直談判などと、本当かどうかわかったものではない。
「ほんと……なんだよな、たぶん」
閉じた携帯電話を充電ホルダーに置く。伝聞が正しくないとしても経験でわかる。あの狂犬は、お節介好きでキザなやつなのだ。春樹が好きなオレンジジュースも買ってきた。
のっぺらぼうな部屋で飲んだジュースは、普段どおりの生活を思い出させた。要するに、おいしかった。
「キザ男。連絡くらいとれるようにしておけよ」
六畳間の窓を全開にした。生温い風だったが、頭が冷えるようにと祈った。
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