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第一話・焔 第四章・2


「……春樹くん。お客様はお客様だ。それ以上でも以下でもない。塔崎様は我が社にとって特別な方だが、きみの特別ではない。最後の一線を譲ってはだめだよ」
 最後の一線とは何だ。もう体の関係になっているのだし、大切な客だと先に言ったのは社ではないか。
 疑念を察したのだろう。稲見はパンと手を打ち、「そうそう!」と言った。
「頭を打った子ね、だいぶ回復したよ。来週には退院できるらしい」
 約二週間前に又貸しにあい、風俗店の近くに放置された男娼のことだ。頭を強打して面会できない状態だと聞いた。三浦の餌食になったであろう人が快方に向かうことは嬉しい。
 新田の安全を考慮して三浦の名を告げられなかった。心に引っかかっていた。
「よかった……! その人は……その、何か言ってますか? 何が起きたのか」
 稲見は顔の前で片手を振る。曇った表情は消えていた。
「それが何も。元来よくしゃべる子なんだけど、当日のことは覚えていないとしか。打ったのが頭だからかもね」
 三浦の玩具にされたなら、粥川が弱みを握って脅しているのかもしれない。春樹がそうされたように。入院するほどの怪我なのだから本当に覚えていない可能性もあるが、脅迫されていると考えるほうが自然だろう。
 稲見が大きく伸びをして首を回す。竹下の写真と仲間の回復でほっとしたこともあり、何の気なしに訊いてみた。
「疲れてるんじゃないですか? 竹下さんのことや、僕の引越しでもあちこち走ってくれたから」
 大あくびをしかけた稲見が口に手を当てる。もう一度首を回し、眠そうな目を開けた。
「粥川が担当する子との面談があるから、少しね。上層部と話したくない子もいるから」
「粥川さんって……どうして」
 意識しなくても背すじが伸びる。嫌な予感がした。
「頭を打った子と最後に接触したから、社の聴取があるんだよ。週明けからは通常勤務に戻……あ、ちょっとごめんね」
 言いながら、胸に手をやった稲見が席を立った。携帯電話を開いてぺこぺこしながら廊下に出ていく。
 春樹はふたたび竹下の写真を見た。アトリエの上に広がる空が青い。夏休みに訪ねたら喜んでくれるだろうか。
 新たな仕事場で微笑む竹下は、突然の別れを充分に慰めた。
(突然の別れ)
 困らせないでくれと新田は言った。もう話すことはできないのだろうか。
 植物学者に宛てる手紙のことを話す新田は輝いていた。久しぶりに見る、新田らしいまぶしさがあった。
 あの輝きに憧れた。太陽に似た笑顔を失わせることしかできないなら…………それなら────
 唇とあごがわなないた。こんなところで落涙したら稲見を驚かせてしまう。席を立ち、音をたてずに扉を開けた。
 稲見は廊下の突き当たりにいた。壁を向いて手を振ったりおじぎをしたりして話している。
 電話の相手は話好きなのか、世間話が長く続いていた。顔を洗う時間はありそうだ。静かに扉を閉めて廊下を歩き、角を曲がる。このあたりにトイレがあったはずだ。
「どちらへ行かれるのですか? 丹羽さん」
 聞き覚えのある声が春樹を呼びとめた。階段の踊り場からえくぼのある男が歩いてくる。
「粥川さ……!」
 素早く近づいた粥川が背後に回り込む。稲見のもとに戻る退路を断たれた。
「大きな声を出さないで。僕もここの者です。おかしなことはしませんよ」
 肘に粥川の手が添えられた。ごく自然に、かつ有無を言わせず廊下に沿って歩かされる。
 踊り場の先にあるトイレに入った。土曜とはいえ誰かいるかもしれないのに、粥川は迷うことなく進んだ。
 個室の扉を後ろ手で閉めた粥川の頬に、特徴的なえくぼはなかった。


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