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第一話・焔 第四章・2


 土曜のためか社の一階ロビーは閑散としていた。大理石のカウンターに受付嬢はいない。足早に目的地へ向かう人がたまに通るだけだ。
 長椅子に陽光が当たり、船をこぎそうになった。昨夜はほとんど眠れず、今日は十時過ぎに稲見から電話があるまでベッドから出なかった。何も食べていないのでふらふらする。
 視界の隅に稲見の姿が入った。軽い調子で手を振ってくる。
「悪いね、来てもらって。今日は昼から夜中まで社に戻れないものだから。部屋はどう? 困ることはないよね。学校の友達をたくさん呼んだりしていないだろうね」
 旧館に行くものと思っていたが、稲見はロビーを突っ切ってエレベーターホールに入った。稲見についてエレベーターに乗る。稲見と春樹の他は誰もいなかった。
「今のところ困ることはありません。友達はひとりも呼んでません」
 声に力が入らないからか、稲見がこちらを見る。春樹は無理に明るい声を出した。
「喫茶室には行かないんですか?」
「あそこにいると出たくなくなるからね。こっち、こっち」
 エレベーターを降りると、稲見はさっさと角を曲がった。もう一度角を曲がり、両脇に扉が並ぶ廊下に出る。会議室が集まる箇所のようだ。
 廊下の中ほどにある部屋が開けられた。稲見が扉の横にあるプレートを使用中のものにして灯りをつける。十六歳の誕生日に呼ばれた部屋とは違う。普通の、狭い会議室だった。春樹の前に横長の封筒が置かれた。
「塔崎様からお預かりしたものだ。見てごらん」
「塔崎様から……?」
 装飾された封筒に入っていたものは二枚の写真だった。一枚は庭らしきところに立つ竹下で、もう一枚はキッチンの前で恥ずかしそうに微笑む竹下だった。
「家政婦の元気な姿をきみに、とのお計らいだよ」
「塔崎様が僕に? ご親類の方にお願いして?」
「そうだよ。料理が上手で気配りのできる家政婦だと、先様もお喜びだそうだ」
 竹下の雇い主は塔崎の遠縁にあたる。南房総にアトリエを構える芸術家だ。写真の竹下は元気そうだった。アトリエの前と思われるところで、風になびく髪を押さえている。少し内股の足もとを見て、春樹の顔に血の気が戻った。
 列車の中で竹下に厚手の靴下を贈ってあった。春樹に見せる写真だから履いてくれたのだろう。
 塔崎が写真を見せる理由はわかる。春樹の気を引くためだ。それはそれとして、竹下には笑顔がある。雇い主が写真を撮ってくれたのだとしたら、働きやすい職場なのかもしれない。
「竹下さん、元気そう! 塔崎様にお礼をお伝えしてくれますか? またお礼状を書いたらしつこくて変でしょうか」
 一週間ぶりに見る竹下の姿は春樹を舞い上がらせた。写真を封筒に入れて胸に抱く。
 ボクサーのような目に怯えた自分を恥じた。塔崎に頼んで正解だったのだ。
「お礼状を書く必要はないよ。明日、午後から塔崎様とお茶を飲んでくれれば」
「もちろんお受けします! 何を着ればいいでしょう。失礼のないようにしないと」
 喫茶店で会うくらい何でもない。場所はどこだろう。銀座の喫茶店なら塔崎と同じコーヒーにしよう。礼状は要らないというが、小さな花束なら贈ってもいいだろうか。
 浮き立つ春樹とは対照的に、稲見はどこか冴えない顔をしていた。先ほどまでの春樹の生気のなさが移ってしまったかのようだった。


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