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第一話・焔 第四章・2


 引っ越してから最初の金曜だった。
「おれ、先に帰るわ」
 力のない声に振り向くと森本がいた。このところ元気がない。学生食堂を利用しない日もあった。
「わかった。調子悪いの? 元気ないみたいだけど」
「んー、ちょっとな」
 普段は転がるように歩く森本が、肩を落として廊下に消える。森本と入れ替わるようにして担任が入ってきた。放課後の教室に残る生徒は数人しかいない。春樹以外の生徒は担任に挨拶して早々に出ていった。
 担任の表情が険しい。言われることの見当はついていた。着席するように言われて椅子を引く。
「丹羽。新しい家でもひとり暮らしだそうだな。どんな部屋だ。都心に近いところだそうだが」
「ひとりには少し広いです。あの……夜遊びとか、なら……」
「丹羽が真面目な生徒だということはわかっている。だが、小テストの結果には反映されていないぞ。親御さんと連絡を欠かさず、困っていることがあるなら相談しなさい」
「……はい」
 教室をあとにする担任の背に一礼する。二日前にあった抜き打ち小テストは散々だった。ろくに復習していないから当然の結果ではあったが。
 生活が変わった実感はない。竹下の味とは違うが、食事は仕出し弁当の宅配と学生食堂で何とかなっていた。洗濯代行サービスを利用すれば下着も洗わずにすむし、靴磨きや掃除はマンションの受付カウンターに申し出ればいい。
 引越しとはこんなものか、とも思った。学校に提出した書類も、新住所や変更前後の通学経路など、必要事項は社によって記入されていた。春樹はわずらわしいことを何ひとつしていない。
 疲れていないのだから勉強に支障はないはずだが、たったの数分も集中できなかった。学習机に向かっても、気がつくと新田のことを考えている。
 校庭を一周しかけたが、やめた。雲が厚く気温も高いため蒸し暑い。いつ雨が降ってもおかしくない空模様だ。
 靴先に紙が当たる。英文が書いてあるレポート用紙だった。数メートル先に新田の後ろ姿が見えた。通学鞄と一緒に抱えるバインダーから用紙が落ちて飛ばされたようだ。
 英文の他に赤のボールペンで訂正されたところがある。訂正箇所は筆跡が違うので、文章を誰かに見てもらっているのかもしれない。
(大事なものだったら……)
 新田は用具倉庫に入っていく。月曜日に渡すことも考えたが、タイミングを逸するのは目に見えていた。
 渡したらすぐに帰ろう。深呼吸して用具倉庫の扉をノックした。




 明り取りの窓が開けられて倉庫内に風が入った。新田は積んだ土嚢の上に腰を下ろす。
 いつもふたりで座っていた棚板には、春樹がひとりで腰かけた。新田がレポート用紙を鞄にしまいながら言う。
「拾ってくれてありがとう」
「う、ううん」
 この一週間、新田から聞いたのは抑揚のない「ありがとう」だけだった。それも月曜だけだ。迷った末に参加したクラブ活動で、ホースを渡したり花壇のゴミを拾う春樹に「ありがとう」。月曜以外は近づくこともできていない。
 会話が進む気配はない。立ち上がりかけて、新田の顔色が優れないことに気づいた。春樹がそばにいるためかとも思ったが、目の下のくまは数日前にもあった。
「先輩、眠れないの……?」
 初めて新田が春樹を見た。ぼんやりした顔をしている。
「目の下、くまができてます」
 新田は目の下に触れて、そのままひたいを覆った。背を丸めて肘を膝につける。
「しゅ……先輩。大丈夫? どこか痛いの?」
「大丈夫だ。構文につまずいて、夜遅くまで辞書と格闘してたから」
「構文?」
 通学鞄のファスナーが開く。しまったばかりのレポート用紙を出した新田が、赤い訂正箇所を指差した。
「尊敬する植物学者がいるんだ。ヨーロッパの人なんだけど、今はアメリカにいる。手紙を書いたけど自信がないから、先生に添削してもらってるんだ」
 新田の声に弾む感じがよみがえった。口もとがほころびかける。
 だが、春樹と目が合うと笑みが消えた。手紙文をしまって土嚢から離れる。扉が開き、湿った空気が流れ動いた。
「……逃げてると思うか?」
 戸口に立つ新田が言った。茶色の瞳に膜はないが、底から滲むような暗さがある。
「お前に落ち度はないのに、こんな態度だ。軽蔑するならしてくれ」
 唇を引き結んで新田を見ていた春樹が、弾かれるように棚板から立ち上がった。用具倉庫の入り口でつまずいて引き戸にしがみつく。がたつく音に新田の足がとまった。
「悪いのは暴力を振るうやつらだよ! 修一でもないし、僕でもない!」
 やめろという脳の指令を遮断した。新田が去るときが別れだと決めていたが、今をそのときにしたくない。
「あんなやつらのせいで、なんでこんな思いしなきゃいけないの?! そばにいちゃだめなら、だめって言ってよ!」
 両手を握る新田は振り返らない。背中も丸めたままだった。
「言えるわけない……困らせないでくれ」
 自嘲した響きだった。狭い歩幅で去っていく。風が砂埃を立てて新田の影をかすませる。
 春樹は用具倉庫の中に入った。引き戸を思いきり引く。誰も入れないように押さえつけ、ずるずるとしゃがんだ。土の床が涙でいびつな形に濡れていく。
 これが終わりなのか。体まで売ってそばにいたいと思ったのに、この結果か。
 汚い道を選んだ罰なのかもしれない。最初から新田に寄り添う資格がなかったのだ。
 風が戸を叩く。扉のきしみが嗚咽を、明り取りの窓から吹く風が新田の匂いを消した。


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