Cufflinks

第一話・焔 第四章・2


「反論もできないのか。それでよく好きだと言えるな」
 冷静になろうと目を閉じたのが間違いだった。高岡の香りがしたと思ったら、口の中に舌が入ってきた。
「うう! んっ! ううッ」
 オレンジの味を感知する。高岡の舌が深いところで絡んだ。甘みの奥に煙草の辛さを認めたとき、胸と胃の間が熱く痛んだ。首を横に振ろうとしたがかなわない。いつの間にか高岡に頭ごと抱え込まれていた。
「……う、っ」
 未整理の感情が目尻から落ちた。こんがらがったときの涙は自分ではとめられない。球になって伝う液体が高岡の指に触れる。音をたててキスが終わった。
「ど……して、こんな……なんで……」
 高岡がゆらりと身を起こし、春樹にまたがった状態で自分のベルトを引き抜いた。リビングのカーテンは開けたままだ。
 天井まである窓を背にした高岡は、逆光を受けて薄墨色の影となっていた。
「やめてください! 勝手に来てひどいことしたって、会社に言いますよ!」
 二つ折りにしたベルトが服地の上から脚を撫でる。
「やめて!! 誰か助けて! 嫌だこんなの、い…………ッ!」
 腿の外側に痛みが走った。ベルトが肉の多い部分を鋭く打つ。身をよじると尻をぶたれた。しなるベルトが腿の裏を撫でる。膝裏から背中にかけて、ぞくりとする感覚が駆け抜けた。
 はっきりした痛みがあったのは最初の一撃だけだ。高岡が怒ったり楽しんでいる様子はない。
「ひどいことになるかは、お前次第だ」
 性欲を満たしたいならとうに実行に移しているだろう。レイプまがいのことならこれまでにもされた。
「俺を部屋に上げたのはお前だ。何故断らなかった」
 断るという選択肢があることに────思い至らなかった。
 返事もせずに高岡の顔を見る。狼のような目は少しも動じない。
「又貸し事故があっての引越しだと伺っている。よく考えて他人を部屋に上げろ。上げたならあきらめて尻尾の振り方を考えるしかない」
 春樹は息を吐いた。中途半端な抵抗ならしないほうがいいと言ったのはこいつだ。
「チャンスが欲しいか」
 高岡がベルトを放る。両手を春樹の顔の横について見下ろしてきた。
「争わずに俺を拒んでみろ。できなければ慰み者だ」
 頭の芯がカッとなった。注意力散漫な商品に、身の危険から脱する機会を与えてやろうというわけか。
 上手くかわせたとして無事ですむ保証はない。この狂犬は、人から何かを奪わずにはいられない性分なのだ。
 男らしい腕から肩まで、ゆっくり撫で上げた。冷徹な目を見つめてからまぶたを下ろす。
「唇が……寂しい……」
 高岡の肘がソファについた。唇が重なる。浅く触れ合う唇に鋭さはなく、上唇の裏を舐められた。
「っ……く」
 新田のキスと同じだった。唇と舌で丁寧に吸うように舐められる。
 想いが通じていたころを思い出し、息がつまりそうになった。厚い胸板を押しやる。
 素直に離れた高岡の顔には微笑があるだけだ。あざける感じはない。
「ここまできておあずけか」
 頬に高岡の右手が触れる。春樹は傷の残る手をとり、絆創膏に口づけをしようとした。
 右手を持った手を振り払われる。高岡の眼光がきつくなっていた。
「お前に許した覚えはない」
 三浦の犬には許したではないか。
 いきどおりが喉もとまでせり上がったが、芝居を続けた。高岡の手には触れず、胸に頬を寄せて抱きつく。規則正しい鼓動を聞きながら言葉を手繰った。
「鍵がないのに来てくれて、嬉しかった」
 広い背中に腕を回し、胸に頬ずりして続けた。
「あなたは事故だと言うけれど、右手の傷がなかったら僕はここにいませんでした。怪我してるあなたとはできません。お願いです、わか────」
 最後まで言うことができなかった。高岡の傷が新田の怪我とオーバーラップする。
 土嚢につまずいてしたキスや、互いの髪に触れた指、花言葉を教える新田の笑顔が浮かんでは消える。
「ごめんなさ……」
 あふれた涙で高岡のシャツを汚さないよう、顔を横に向けた。
 テストは失敗だ。目を閉じてシャツのボタンを自分で外す。肌をさらけ出す手に、高岡の手が重ねられた。
「その涙を新田の前で見せろ」
 ソファから下りた高岡がベルトをはめる。スーツの上を着て髪も整える。端整な顔がこちらを向いた。
「新田が好きか」
 目を見て訊かれた。はいと言って顔を拭う。
「それなら必死になれ。なりふり構うな」
 二度目の返事は届いたかわからなかった。廊下への中扉が開く。
 玄関が閉まり、ソファの上で膝を抱えた。高岡の残り香を嗅がないように、苦しくなるまで息をとめた。


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