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第一話・焔 第四章・2
新しいリビングは明るかった。今日は朝から曇っていて陽の光はない。
にもかかわらず、二十畳強の空間の隅々まで輝いていた。大きな窓と天井に埋め込まれた照明だけで十二分の明るさを確保できる。晴天なら影のない部屋になるだろう。
壁と天井は白、フローリングの床はアイボリー、カウチソファとダイニングの椅子も床と同じ色で、ダイニングテーブルはガラス板と銀の脚だった。色のない部屋には隠れるところがない。
カウチソファは少し硬く、ソファの前にローテーブルはなかった。高岡の別邸と同じような補助テーブルがあり、床には毛足の長いラグマットが敷かれている。
荷物は玄関脇の六畳間におさまった。何にでも使える部屋ということで、学習机とダンボールの山を入れてもらった。六畳の部屋を開けなければ雑然とした観はまったくない。
掃除は業者がした。テレビも見られるようにしてもらった。冷蔵庫も電話も水回りもすぐに使える。エアコンの試運転も終わっていた。カーテンも付けられている。
細かなやり取りで稲見が動き回っている以外、越してきたばかりには思えなかった。今までと同じ、すべてが春樹の関与しないところで進んでいる。より豪華なゆりかごが与えられただけだった。
「はい、部屋の鍵。これがないとエレベーターにも乗れないからね。紛失したらすぐに申し出ること。いいね」
稲見から薄いカードキーを渡される。カードといっても小さく、キーホルダーにも付けられるように穴が開いていた。
ステンレス製で、飼い犬が首輪に付ける鑑札に似ている。
「エレベーターに乗れない?」
「IC内蔵キーだから。エレベーターにあったよね、かざすところ。忘れちゃ困るよ」
「……ごめんなさい」
このマンションは大きい。二台あるエレベーターにそれぞれカードキーをかざすところがある。鍵がなければ一階以外、他階のエレベーターボタンを押しても反応がないのだ。
「八階だからね。運動がてら階段を使うならいいけど。キーは全部で四枚。きみとマンションの管理人が一枚ずつ、僕は予備を含めて二枚持つ」
「え……あの、高岡さんは」
「辞退されたよ。鍵を持つ人は少ないほうがいいとおっしゃってね。ああ、こんな時間か。ちょっと失礼」
稲見が小走りで離れる。リビングと廊下を仕切る扉を閉め、携帯電話で話し始めた。
手の平にある、鑑札みたいな鍵を見た。冷たい光を放つ鍵を握りしめて胸を押さえる。
高岡が辞退した。
だから何だ。鍵を持つ手が一瞬震えたのも、胸が痛いのも気のせいだ。深く考えるな。
身勝手な男のことだ、鍵などなくても部屋に入れろと命令するに決まっている。命じられれば従うしかないが、短気で気まぐれな男が合鍵を持たないことは歓迎すべきことだ。
(好きじゃない、あんな男。早く一人前になって、あいつから解放されるんだ)
リビングの中扉が開く。稲見が書類一式をダイニングテーブルに置いた。
「学校まで乗り継ぎがあるから余裕をもって。とにかく鍵をなくさないように。何でもいいから食べるんだよ。いいね」
稲見は早口でまくしたてて出ていった。春樹はソファで小さくなり、新しいゆりかごを仰いだ。
学習机の引き出しに見られたくない私物をしまった。
百万円の金額が印字された預金通帳とキャッシュカード、印鑑、塔崎からのキーケース、旅行券、コンドームの綴り、雑居ビルの医院でもらったローション、八つ裂きにされたキキョウのハンドタオル、そして高岡のカフスボタンだ。
竹下もいないし高岡も勝手に上がれないのだから隠す必要もないが、大っぴらに出しておくものでもない。
引き出しの鍵を参考書の後ろに隠して汗を拭う。学校で使うものや制服、少しの部屋着と寝具、最低限の洗面道具を出しただけでこの疲れだ。
「もういいや。あとは明日にしよ」
机とセットの椅子に座る。和室もない洗練されたマンションに学習机は合わない。置いてくるように何度も言われた。
この机は小学校に入学したときに買い与えられた。嬉しくて、何日かは学習机で食事をした。UFOに乗る宇宙人ではない、地球人の親がいるのだと思えた。六歳前後の記憶で唯一はっきり残っているものだ。
もうすぐ夕方だが空は暗くない。乳白色の雲を見るうちに睡魔に誘われた。机に顔を伏せたとき、聞き慣れない音がした。扉の脇にある室内電話が鳴っている。
「誰……?」
自宅の電話番号は変えたと言っていた。春樹も覚えていない番号を知るのは稲見だけのはずだ。鳴っている音も、電話の呼び出し音というよりインターフォンに似ている。
考えても始まらない。そっと受話器を取って耳に当てる。落ち着いた女性の声がした。
「お忙しいところ申し訳ありません。受付カウンターです。……号室の丹羽様でしょうか。お客様がおみえですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「は、はい、丹羽ですけど……お客様って」
稲見が忘れ物をしたとしても鍵があるのに受付を通すのはおかしい。扉から玄関を覗き見る春樹に、日常を乱す人物の名が告げられた。
「高岡様とおっしゃる方です」
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