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第一話・焔 第四章・2


 弁当を食べ終えた春樹は、積み上げられたダンボールを眺めながら茶を飲んだ。ひとりで住んでいても、十六年間をここで過ごしたのだ。大量の物に囲まれて生活していたのだと思う。
 引越し先には備え付けの家具が揃っているため、愛着のあるもの以外は置いていくように言われた。学習机以外の家具と家電製品、雑品の大部分をあきらめた。あきらめきれないものがダンボールの山と化している。
「だって、仕方ないよね。そう簡単には捨てられないよ」
 母の遺影に話しかける。この部屋での残り少ない時間を一緒に過ごそうと、できるだけそばに置くようにしていた。
 写真立てを持ってソファに移動した。クッションを抱えて座り、ダンボール城のような室内を見る。
 望んだ引越しではない。新居での生活を想像しても、わくわくした気持ちは一向に湧き上がってこなかった。テレビをつける気にもなれず、クッションの端にあごを乗せた。そのままの姿勢で横になる。頭に携帯電話が触れた。
 新田に引っ越すと言っていない。森本にも話していない。安全のためという言葉のもとに、春樹ですら正確な新住所を知らないのだ。
「母さん。修一に電話してもいいと思う……?」
 小さな四角におさまる母の髪は春樹と同じ色だ。濃い栗色の髪は春樹をより中性的に見せている。染めているのではと言われることもあった。
 入学して日が浅いころ、用具倉庫で新田の視線に気づいた。春樹が照れて微笑むと新田の顔も赤くなり、髪に触れてもいいかと言われた。
 髪をすいた新田の指の感触も、「きれいな髪だ」と言った声も、忘れられるはずがない。
 新田がいなければ今でも自分の髪を好きになれなかっただろう。黒く染めていたかもしれない。
 携帯電話を開く。新田と話す機会は激減していた。廊下ですれ違っても会話はなく、視線も合わない。学生食堂では春樹の気配に気づいた新田がトレーを手に元いた席に戻ったりする。
 そういうことが続き、春樹も下を向いて歩くようになっていた。
(出てくれるかな。番号、まだ登録してくれてるかな)
 新田の番号を表示させて通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴った回数は少なかった。
「……はい」
 警戒心を隠さない声だ。今の新田には春樹の存在そのものが凶器になっている。とたんに言葉が出なくなった。
「大事な話なのか? そうじゃないなら、集中したいことがあるんだ。悪いけど……」
「勉強してたの? ごめ」
 慌てて口を閉じた。無意味な謝罪は最も酷な罰だというのに。
「切ります。勉強、頑張ってね」
 邪魔をするだけの電話を切った。携帯電話をローテーブルに置く音がむなしく響く。
 高岡はつらいと言えと言うが、無理だ。
 好きと言ったのも、髪に触れたのも、体調を心配したのも、すべて新田が先だった。
 勇気の要ることはいつも新田がしてくれた。春樹は「つらい」のひと言すら言えない。情けなくて泣きたくなる。
 母の遺影を胸に抱いた。ダンボールの山を見上げる。
 四角い箱の群れが襲ってきそうに思えて、クッションで頭を覆った。


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