Cufflinks

第一話・焔 第四章・2


 停車して初めてどこかわかった。春樹が以前住んでいたマンションの裏手だった。
「どうしてここに?」
 質問には答えず、高岡は車のライトを消した。外を見ながらシートベルトを外す。
「新田から電話はないと言ったな。越したことも言っていないのだな」
「は、はい」
 非礼な電話のあと、新田からの着信はない。部屋でも着信履歴を見るように言われて確認している。
 新田とはまともに話せていない。引越しのことも言えないでいた。
「俺がドアを開けるまで降りるな。シートベルトは外しておけ」
 高岡が車外に出て前髪をかき上げた。黒髪が夜の空になじむ。狼みたいな目は、闇の向こうを見ているだけだ。
 数分経ったころだろうか。左右に動く光が見えた。新田の自転車がマンションの角でとまる。
 あきらめかけていたはずなのに、胸の高鳴りを抑えられなかった。
「修一……!」
 ドアを開けようとしたら手ごたえがない。無表情な顔をした高岡が開けていた。
 無表情だと思ったのは一瞬のことだった。眼光が一層きつくなり、目尻が上がる。
「お前には心底呆れる!! 出ろ!!」
 二の腕を強く引かれる。シートベルトは外していたし腰も浮いていたため、軽々と引っぱり出された。
 引きずられてマンション横にある道の中央に出た。駐車場の灯りに照らされる場所で、街灯もある。
 夜道でも明るいところに、あえて躍り出たような格好だった。新田が気づいてこちらを向く。
「歯を喰いしばれ」
 暴力に慣れた体が従っていた。平手が肉を打つ音と共に、左の頬に強い痛みが走る。
 衝撃でよろめいたが、新田に見えないように高岡が軽く支えた。そのため、路肩に倒れても痛くはなかった。
「春樹……? 高岡さん! やめてください!」
 新田が自転車を倒して駆け寄ってくる。高岡は春樹の髪をつかみ、右手を高々と振り上げた。
「やめろ! 警察を呼ぶぞ!」
 春樹に二度目の平手が飛んでくることはなかった。新田が高岡の右腕をつかんだためだ。
「何の権利があってこんなことするんだ!」
 新田が高岡の腕を放して春樹の前に立つ。睨むというより、憐れむような目で高岡を見た。
 灰色の瞳は動じることなく、つかまれていた腕を払い、春樹に向かって言い放った。
「たかが引越しで寂しいなどと。嫌ならずっとここにいろ」
 高岡を共通の敵と見なす新田が、しゃがんで肩や腕をさすってくれた。以前の、優しい新田になっていた。
「引越し? どういうことだ、春樹」
 転居を知らない新田から電話がないのであれば、ここに直接来る可能性がある。高岡はそう踏んだのだ。
 鈍い頭でもこれは高岡の芝居だと悟ったが、頬の痛みのほうが勝った。
「た、高岡さんが東京にいないから! 連絡とれるように、しておいてくれないから!」
「ほう。俺と連絡がとれなくて困る理由があるのか」
 動物に似た目が細められた。スーツの内側に手を入れてせせら笑う。
「あるなら聞いてやる。言ってみろ」
 芝居なら左手で殴ればいい。何かを断ち切るように利き手でぶつから混乱するのだ。
「……ないです」
 目を伏せて笑う高岡が紙幣を出す。折りたたんで新田に渡そうとした。
「申し訳ないが、チビを正しい自宅まで送ってくれないだろうか。自転車はきみの家まで運ぶよ」
 新田はかぶりを振った。着ていたパーカーを脱いで春樹の肩にかける。
「タクシー代ならあります。自転車は駅の駐輪場に入れるからいいです。あなたに触られるのは嫌です」
「迷惑料だよ。僕ではなく業者が運ぶ。気兼ねすることはない」
「迷惑じゃないから要りません。あなたが用意した人に触られるのも、嫌です」
 高岡は片方の眉を上げ、首を少し傾けた。あっさり現金を引っ込める。
「それは結構。春樹をよろしく頼む」
 キザで長身の男がマンションの裏手に消えた。ドアが開閉する音とエンジンの音がして、外車が春樹たちの脇をすり抜ける。窓越しに見えた顔は平然としていた。
 春樹の横に座った新田が、我に返ったように視線をさ迷わせる。
 これが最後でもいい。そう思って新田の手を握った。新田の泳いでいた目がとまる。
「さっきの電話で、目が覚めた」
 手が握り返される。いつだったか、公園のベンチでつないだときに似ていた。
「お前につらいと言わせて、俺は何やってるんだって思った」
「あの電話のことは言わないで」
 どうしてだ、という声が近くでした。ささやかれたとわかったときには、髪を撫でられていた。
「恥ずかしいか……ら」
 もう重なることはないと思っていた唇が触れた。記憶の中と同じ、あたたかい口づけだった。


<  第四章・3へ続く  >


【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第4章・3のupまでお待ち下さい。
稲見がたくさん出た回でありました(笑)
慇懃無礼なのにお人好しな社員に情が移ってきまして、
稲見視点の番外編を書きそうな勢いです。嘘です(笑)
新田との仲直りはこれでOKなのでしょうか。
次回は笙子が久々に登場するかも?
とりあえず、壬の店で働く従業員に幸あれ。


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