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第一話・焔 第四章・2


「勉強の虫! がり勉! 電話なんかしてないで、英語の手紙、書いてれば!」
 車の音らしきものが聞こえる。数秒後に、恐ろしく怒気のある男の声がした。
「がり勉呼ばわりするために何度もかけたのか。用がないなら切るぞ」
 大きなしゃっくりが出てしまった。高岡が怒っている。考える前に正座していた。
「たかっ、ごめ、ごめんなさ」
「用は何だ」
 しゃっくりがとまらない。咳も出るし、気のせいか吐き気もする。
「……アルコールを飲んだのか」
「はい、すみませ」
「謝るのはあとにしろ。何をどれくらい飲んだ。気分はどうだ。事故ではないだろうな」
 盛大なしゃっくりと同時に我慢の糸が切れた。
 かけてこなくていいときにばかり電話して、肝心なときにいない。所在くらいはっきりさせておけ。そうすればビールをがぶ飲みすることもなかったし、新田にひどいことも言わなかった。
「ビールを一缶です。気持ち悪いです。心配なら、ちゃんと、い、いてくだ」
 口を押さえてトイレに駆け込んだ。弁当とビールを吐いてリビングに戻ると電話は切れていた。
 とうとう狂犬にも見放されたらしい。
「知るか。ばか。ばか男!」
 吐いてしまうと急速に体が冷えた。まだ八時にもなっていなかったがベッドに入る。
「ばかなのは……僕だ」
 おさまらない心臓の音を聞きながら、枕に顔をうずめた。




 アルコールによりもたらされる睡眠は浅いと知った。三十分も眠っていなかったことになる。
 うつむいても吐き気がないため、リビングを片づけた。床を拭き終えたときにインターフォンが鳴った。
「……丹羽です」
「高岡様とおっしゃる方がお見えですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
 受話器を押さえて玄関を凝視する。
 いいえと言えば凶暴な男はゆりかごに入れない。今あいつを部屋に上げたら何をされるかわからない。
 春樹が選んだのは、またしても愚かな道だった。




「稲見さんは何とおっしゃっていた」
 左隣からする声は電話のときほど怒っていない。
 春樹は助手席で頭をさすりながら、高岡が買ったミネラルウオーターを飲んでいる。
 一度部屋に来た高岡は春樹を見るなり拳骨をくらわせ、事情を訊いて車に乗せたのだ。
「家政婦さんが復職したと知らせたいけど、連絡がとれない、と」
「復職できたのか。よかったな」
 返事はしなかった。職場が決まった経緯も、どんなところかも訊ねようとしない。その程度のことなのだ。
 竹下は暖かい新天地で元気に働いている。母代わりの人を救ったのは塔崎だ。高岡ではない。行方をくらますような男に口添えされても、今よりいい職場にはめぐり合えなかっただろう。
「……高岡さん、どこに行ってたんですか」
「さあな。高速を降りたらお前からのストーカーめいた着信があった」
「スト……外国じゃないんですか?」
「何故外国だと思う」
「前に連絡がとれなくなったとき、海外にいたって稲見さんが」
 記憶をたどる顔をした高岡が、唇の端を上げてウインカーを出した。
「そんなこともあったな」
 話す気がないのはいい。教える必要がないなら、電話も折り返さなければいいものを。
 ビールが残っているのか顔が熱い。前を見たままペットボトルを当てる。左折を終えた車がスピードを上げた。


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