Cufflinks
第一話・焔 第四章・2
自宅マンションの受付カウンターと、インターフォンを通して話した。
「本日のお夕食の配達はキャンセルでございますね? 明日はいかがなさいますか?」
「明日は……明日も……キャンセルにしてください」
かしこまりましたという声を聞き、換気のために開けておいた窓を閉めた。
リビングにはふたつ窓がある。ひとつはベランダにつながる南向きのもので、もうひとつは中庭に面したものだ。一度閉めた窓を開けて下を見てみる。
マンションの建物は二棟あり、中庭を挟んで八の字になっていた。人工的な庭は緑豊かではない。噴水の周りに花がある他は、目隠しを兼ねた植え込みが数箇所あるだけだ。考えてみたら中庭には一度も入ったことがない。
壬の店にあるような庭なら、利用しただろうか。壬の庭は緑のベールで覆われていた。霧が出たりしたら空気の色が変わりそうなところだ。土と草の匂いもした。
ツタの絡まるポーチに隠れて、高岡とキスをした。泣きやまない春樹の涙をとめるために、高岡が唇を重ねた。
そっと押し当てるだけの、優しいキスだった。
「……会いた、い」
無意識に出た言葉に愕然とした。間違ったことを言った。口にしてはいけないことを。
キッチンの脇から大きな音がした。自宅電話が鳴っている。電話機に相手の番号が表示されていたが、今の春樹の目には入らなかった。
「たかっ、高岡さん?!」
いつもの嘲笑も、仔犬ちゃん、もない。かすかに「あれっ」という声がした。
「高岡さん? 高岡さんなのっ? 返事してください!」
「稲見だよ。番号通知してかけたつもりだけど。高岡さんと連絡がとれたのかい? 彼に番号を教えるのはいいけれど、教えたらこちらにも言ってくれないと」
電話を通した声は稲見に間違いなかった。安堵の息をついて目を閉じる。
「ごめんなさい。高岡さんには教えてません。連絡もないです。何か……?」
うーん、という声と共にコツコツという音がする。
これは稲見の癖だ。少々無理のある依頼をするときに、電話機を指で叩くことがある。
「今度の週末だけどね。土、日で仕事が二件あるんだ。土曜日は塔崎様。いいかな」
「……はい」
受けるしかない。春樹を見て自慰をする客でも恩人だ。単なる上客ではない。
「あの、もう一件のお仕事は」
また「うーん」とコツコツだ。こちらの仕事に問題があるのだろうか。
「きみが接待したことのないお客様が、きみをご友人に、とおっしゃるんだよ……ああでも、やはりお断りしたほうが」
「え、なんですか」
これも手口なのだろうと思うが、もったいぶった言い方は好奇心を煽る。
もう一度コツコツがしたあと、気乗りしないような声がした。
「少々難しい方なんだよ。きみには塔崎様という大切なお客様がいる。日曜の夜だし、無理はさせたくないからね」
話が見えない。無理をさせる可能性があるということは、乱暴な客なのか。
「はっきり言ってください。どんな方なんですか」
コツコツ音が続く。稲見は作戦ではなく、本当に渋っているのかもしれない。
「三浦様は知ってるかな。高岡さんのショーを観た夜にいらっしゃったんだが。その方の弟にあたる方で、三浦勇次様とおっしゃる方だよ」
「三浦……勇次、様」
勇次はコネを使って客から紹介されるようにすると言っていた。鞭の痕に、消えたはずの痛みを感じる。
ペントハウスでの蛮行を思い出すと同時に、受けてやれ、という声が頭の冷めた部分で響いた。
「あの方にはよくない噂がある。プレイも優しくないと聞くし、お断りするなら」
「お受けします」
電話の向こうが無音になった。稲見の動揺が伝わってきたが、手が震えたりはしなかった。
「あのね、はっきり言うよ。サディストの方で、薬物を使われるという噂が」
「お受けします。ちゃんと社を通してくださるお客様ですから」
「春樹くん……」
「僕の体は会社のものです。何かあれば助けてください」
「……わかった。迎えの時間は決まり次第電話する。服装はお洒落なもので。用意できるかな」
できますと言って会話が終わった。受話器を静かに置く。
勇次と寝たことがあるから安心したわけではない。三浦や高岡以上に起伏のあるサディストだ。本心は読めないし、薬ナシと言っていた言葉も信じはしない。
日曜の次は月曜だ。月曜にはクラブ活動がある。
荒々しく扱う男と寝れば、学校が休めるかもしれない。早退でもいい。勇次なら挑発すれば壊してくれる。
こんな仕事に意義など見出せない。生きやすいように利用して何が悪いというのだ。
携帯電話の発信履歴を表示する。『T』は見ないようにして、壬の店に電話した。
次のページへ