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第一話・焔 第四章・2
昼休みになっても腹が減らず、春樹は教室でひとり座っていた。
昨夜の仕出し弁当も三分の二以上残し、朝は何も食べていない。無理に食べると吐いてしまう。
後ろの席から音がした。森本が携帯電話を見ながら椅子を引いている。
「森本。学食行ったんじゃなかったの?」
「ん、ああ」
上の空だった森本が、難しい顔をして腰を下ろした。乱暴に携帯電話を閉じる。
「瀬田のやつ。どこ行ったんだ」
瀬田(せた)は森本と中学が同じだった。春樹たちとはクラスが違う。家は工務店を営んでいたが、たたんだと言っていた。家計が苦しいため学生食堂は利用しない。
「第二食堂にいるんじゃないの?」
森本は周りを見ると春樹の二の腕を引いた。身を乗り出して小声で話す。
「あいつ、休んでんだ。風邪が理由だって話だけど、嘘に決まってる」
「嘘って……どういう」
「バイト増やしてるみたいなんだよ。家に帰らない日もあるらしい」
森本は購買部でパンを買った。春樹も同行し、薄暗い第二食堂の隅で森本と向かい合わせに座る。
「それだけで足りんのかよ」
と言う森本も、カレーパンとコーヒー牛乳だけだ。
「うん。それで、瀬田くんが嘘って、どうして。家に帰らないってほんと?」
「先週からヘンなんだ。あいつの弟が心配して電話してきた。トンカツ屋のあとで違うとこに行ってるみたいだ、って」
「え……でも」
学校はアルバイトを許可しているが、申請内容に偽りがあれば停学になると、瀬田本人が言っていた。
わかったうえでやっているのだろうか。
「トンカツ屋には?」
「月曜定休なんだ。自宅にかけても誰も出ない」
森本はそこで言葉を終えた。いきどおりを隠せない顔でパンを食べる。
先週から変なのは森本も同じだ。騒がなくなったし、学生食堂にいない日もあった。
ここでパンを食べていたのだろう。瀬田と差し向かいで話したのかもしれない。
春樹は手の中にあるパンを見た。ゆで卵を挟んだロールパンだ。瀬田と森本と、三人で食べたときと同じものだった。
吐き気が何だ。食べろ。瀬田は必死に生きている。ゆりかごがあるのに駄々をこねるな。
口に押し込んだ。うまくいかない現実を噛み砕くつもりで食べた。
用具倉庫に新田はいなかった。
授業の一環であるクラブ活動に新田が遅れたことはない。来たくないのだ。
これほど避けられているのに、まだ新田をあきらめられずにいる。
明り取りの小窓を開けた。よどんだ空気と一緒に、胸や喉につかえているものを流してしまいたい。
スチール棚の一番下を探る。プラスチックでできた、苗などを一時的に置く浅い箱を引っぱり出した。
古くなった箱の仕切りを切り取り、底に網を入れて種袋を入れるケースにしている。加工したのは新田だ。
仕切りの切断面にガムテープが貼られていた。「手を引っかけるといけないから」と言う新田の頬は赤く、春樹のために貼ってくれているのだとわかった。
ここにある種から育った花は少ない。学校には造園業者が入っており、花壇の花のほとんどは数か月おきに業者によって植え替えられる。にもかかわらず、新田は種を蒔き続けた。
顧問はクラブ活動に熱心ではない。新田は入学したばかりのころ、花壇の一部を借りたいと相談した。
肯定も否定もしない顧問に乗じ、植えつける場所を広げた。業者に抜かれてしまっても、根気よく陣地を増やした。
抜かれたら悔しいでしょうと言ったとき、新田は笑顔で首を横に振った。
『花の季節はめぐる。桜の木も切らずにおく学校だ。そのうち認めてもらえる』
ケースの縁に涙が落ちる。
新田が入学したとき園芸クラブはないと言っていた。新田はひとりで顧問になる教師を探し、花の世話や掃除、活動費の管理をこなしたのだ。
クラブ活動をしたいに決まっている。春樹さえいなければ、新田はひるまずにここに来られる。
顔を拭ってケースをしまった。引き戸を開けたら新田と鉢合わせになった。濡れている目を見られ、鞄で顔を隠す。
「かえ、帰ります……失礼します!」
一目散に逃げ出した。足が速ければ、森本みたいに駆けることができれば、新田の苦痛も半減するのに。
「春樹!!」
呼びとめられるとは思っていなかった。つんのめりかけて、何とか踏んばる。
恐る恐る振り向くと、新田がゆっくり歩いてくるところだった。
ふたりで向き合うのが怖いと思う間もなく、新田の言葉に胸をえぐられた。
「どうして軽蔑しないんだ」
新田は目をそらそうとしない。光の消えた目でこちらを見て続ける。
「嫌われて当然のことをした。軽蔑してくれたほうが楽になる」
少し痩せた顔に、もう怪我の痕はない。ひたいに薄いかさぶたがあるだけだ。肉体の痛みは消えたのかもしれない。でも心が泣いている。卑怯なことをしたと後悔している。
春樹は平行に並ぶふたりの影を見ながら、消え入りそうな声で訊いた。
「僕がいるから苦しいの……? いなければ……楽になれる……?」
新田が一歩後ずさる。スニーカーの靴跡が引きずられた。
「楽になれるって言ったら、どうする」
校庭には春樹の影だけが残された。新田の気配が完全になくなるまで、顔を上げることができなかった。
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