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第一話・焔 第四章・2
東京駅の地下ホームで竹下とふたり、線路を眺めていた。稲見が両手に売店の袋を提げて歩いてくる。
五月最後の土曜日は午後から気温が上がり、稲見のひたいには汗が光っていた。
「お疲れではありませんか? よかったらどうぞ。お昼まだですよね」
袋の中には弁当と茶があり、稲見は三つある袋のうちのひとつを竹下に手渡した。
「もったいないです。もう、本当に」
「ついでと言ったら失礼ですが、僕も食べたかったものですから。もう列車が入りますね。行きましょう」
稲見は竹下の大きいボストンバッグを持ち、先頭を切って歩いていく。春樹が東京銘菓の入った紙袋と小さいボストンバッグを持ってあとに続いた。
「春樹ちゃん、そんな、持ちますので」
バッグを取り返そうとする竹下の手を握った。いつもの、少し荒れた手だった。
「ここは甘えて。竹下さんにはぎりぎりまでお世話になったんだから」
今朝早く竹下が春樹の部屋に来た。明日が春樹の引越しのため、荷物の片づけを手伝ってくれたのだ。自身も新しい勤務先に発つ日だというのに、稲見が迎えにくるまで何くれとなく働いてくれた。
「今度のとこの人、変わってるね。掃除は念入りにしなくていいなんて」
「お仕事場がございますし……物の定位置が変わることをお嫌いになる方かもしれません」
竹下の勤め先は彫刻家のアトリエ兼自宅に決まった。塔崎の遠縁にあたる男性で、定年退職した家政婦の代わりを探していたとのことだった。竹下は住み込みの勤務になる。
塔崎が社のメインバンク関係者であること、春樹のたっての願いであることだけが竹下の耳に入っている。少年好きの塔崎と春樹との関係は、当たり前だが伏せられていた。
足首以外は健康で真面目な竹下だ。ひとり暮らしの芸術家の食事と洗濯が中心という条件も悪くない。南房総での新生活を竹下は承諾した。春樹の願いという言葉も効いたのかもしれないが。
「長く住んだ東京を離れるのは寂しいと思うけど、あったかいとこらしいし、夏休みには僕も行くから」
はいという竹下の声が小さい。春樹はつないだ手を上下に振った。
列車が滑り込んできた。指定席のある車両に三人で乗る。稲見がバッグを棚に上げる間に、隠し持ってきた紙包みを竹下に手渡した。
「向こうに着いたら見て。元気でね。僕もちゃんと食べるから、心配しないで」
深々と頭を下げる竹下から整髪料が香った。昨日美容院に行ったのだと言っていた。
発車のアナウンスが流れる。春樹は電車が見えなくなるまで手を振った。
「きみにはいつも驚かされる」
運転席側のドアを閉めながら稲見が言った。ため息まじりの声だった。
「塔崎様から家政婦に復職の意思があるか確認してほしいとご連絡があったときは、肝を潰したよ」
春樹の膝に弁当と茶の入った袋が乗る。稲見がルームミラーを通さずに春樹を見た。
「不相応なお願いごとは会社を通すこと。社で把握できないことがあるのは困るし、きみの安全のためだ」
安全のためと言われて、背中が少し冷たくなった。
三日前の夜、春樹は塔崎の前で土下座した。竹下を復職させたい一心からだった。塔崎は春樹の話を聞き終えるとうなずいた。頬をピンクに染めて春樹の手を握り、撫でまわし、べとべとした声で言った。
『家政婦さん、足首が悪いの。きみは優しいね。暖かいところなら関節にもいいかな。あてがあるから当たってみるよ。悪いようにはしない。だから……ね、また会ってね』
言われたことはこれまでと変わらない。手を撫でられたのも予測の範囲内だ。
目が違った。ホテルのレストランで見た塔崎の瞳はぎらぎらしていた。
勝つとわかっている試合に臨むボクサーのような、ゆるぎない自信に満ちていた。
「風邪じゃないだろうね。気をつけてくれないと」
無意識に二の腕をさすっていた。いいえと言い、サイドミラーを見る。顔色がよくなかった。
「何ともないです。もう勝手はしません。ごめんなさい」
「しつこいようだが、きみたちのための転居だ。出入りする人を減らすために家政婦さんにも辞めてもらったんだからね」
小言であるのに不思議とトゲがない。春樹はシートに深く座り、弁当の袋を抱いて答えた。
「わかりました。あの……稲見さん。ありがとうございます」
眉間にしわを寄せた稲見がこちらを見る。
「お礼なら塔崎様に言いなさい」
「はい。でも、ありがとうございます。竹下さんのアパートのこととか、色々ありがとうございます」
今日、稲見は自家用車で竹下を迎えにきた。体に負担がないようにと特急列車の指定席を用意した。竹下が住んでいたアパートを引き払う手続きも、足りない荷物を後から送る手配も稲見がしたのだと聞いている。
稲見はむすっとした顔で前を見る。頬の高いところがほんのり赤い。ラジオのボリュームが少しだけ大きくなった。
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