Cufflinks
第一話・焔 第四章・1
アスファルトの表面が白く煙る。雨が空から叩きつけられている。
傘をさしていても線状の雨があちこちに当たる。風が熱をさらい、腕の外側や膝下が冷えていく。靴にも水が入った。
体の冷たさや足もとの不快さが春樹の足を速めさせることはなかった。小石のひとつでもあれば転びそうな足どりで、道を蹴らずに引きずって歩く。縄で括られて刑場に向かう罪人のようだった。
横断歩道を渡りきるとき、傘を持たずに走る若い男に追い抜かれた。男が着ている長袖Tシャツが、昨夜新田が着ていたものと似ていた。車道と歩道の境目で春樹の足がとまる。車が踏んだ雨水が脚の後ろにかかった。
新田は嗚咽を殺し、ちぢこまり、戦っていた。春樹を置いて逃げた自分の影に襲われてもがいていた。
『取り返しのつかないこと……した』
耳の中で新田の声が反響する。傘の柄を腕で挟んで両耳を覆った。透明のビニール傘越しに自宅マンションを見上げる。春樹の部屋に灯りがついていた。
高岡が来ている──?
回れ右をした。溺れる新田にロープではなく石を投げたと知られたくない。あてもなく歩き出したら突風が吹いた。台風並みの風に傘が飛ばされそうになる。風に背を向けると、顔が春樹の部屋の方に向いた。
窓辺に立つ人物の背格好を見て、目の上に手をかざした。陽が落ちてからはいないはずのシルエットだった。
「……竹下さん?」
「急に強く降り出しましたね。寒くないですか?」
竹下は濡れた制服を干してくれた。春樹は大丈夫と言い、何気なく和室を見た。押入れの前にダンボール箱がある。
「会社から引越しのこと聞いたの? 荷物の整理?」
表情を変えずに竹下が畳に正座した。竹下の正座は足首をかばうため、片方にかたむいている。歪んだ姿勢のまま、両手を前について頭を下げた。
「今月一杯でおいとまいたします。長い間お世話になりました。あの箱は私物です。もう少しの間、置かせてください」
「なに? どうしたの、変なこと言って。びっくりす……」
顔を上げた竹下の目に光るものはない。唇がほんの一瞬震えただけだった。
「今日、会社に来るようお電話がありました。稲見さんとおっしゃる方とお会いしまして、定年には少し早いですが、と」
和室もリビングも無音になった。窓を洗う雨の音ばかりが大きくなる。
「そんな……なんで。何で!!」
寝室に飛び込む。携帯電話をつかんでリビングにとって返し、『会社携帯』を表示させた。
「春樹ちゃん、何を?」
「稲見さんと話してみる! こんなこと許せない!」
「おやめください」
立とうとした竹下がよろめいた。ふすまにすがって立ち上がり、真一文字に口を結んで春樹を見る。時々しか見ない、春樹を叱るときの顔だ。
「お父様のお心遣いです。新しいご自宅に人を入れず、自立の心を養われたいと」
自立などと聞いて呆れる。商品の安全を考慮して人を入れたくないだけだ。金も浮いて一石二鳥だろう。汚い商売をする社の都合に振り回されるのは、春樹だけで充分だ。
ソファの前にあるテーブルを睨む。写真立てにいる母は父のどこに惹かれたのだ。会社の金を横領して春樹を捨て、竹下を雇う金も惜しむ父の、どこに。
「何が自立だ! 十六年も放っておいて、勝手なことばっかり……!」
「お父様に対してそんなことを言ってはなりません!」
両手の甲に竹下の手の平が重なった。竹下の目に力強い熱のようなものがある。
「本当によくしていただきました。最近は寒くなくても、お天気が悪いと足が痛みます。いい頃合いです」
「何言って……突然辞めさせられて困らないの? 悔しくないの?!」
荒れた指が春樹の手首に触れた。涙も落胆もない目が、しっかりしろと言っている。
「退職のお手当てはもったいないほどです。わたしのことより、もっとお食べになってください。やはり痩せられましたよ」
竹下は春樹の腕を数回、大きく上下に振った。元気を出して、を意味する動作だ。級友にからかわれて落ち込んだり転んで帰ってきたときに、こうして腕を持って振ってくれた。
「しっかり食べて、お勉強も頑張ってくださいね」
笑顔で礼をした竹下が玄関に向かう。深く曲がらない足首を靴に入れようと、壁に手をついている。
春樹は竹下の足もとにしゃがみ、靴を履かせた。
「いけません。手が汚れます」
「竹下さんの靴なら汚れないよ。僕にもたれて」
「……ありがとうございます」
鼻にかかった竹下の声を聞きながら、靴の小ささを改めて知った。
ひどい降りだからと竹下を説き伏せてタクシーを拾った。車内で何度も頭を下げた竹下は、一度だけ目頭をぬぐった。
部屋に戻り、ダイニングテーブルに並べた夕飯を食べる。すべて竹下が新しく作ってくれたものだ。ロールキャベツは下手な箸使いでも楽に切ることができる。コンソメと脂の旨み、キャベツの甘さがおいしい。噛んでちょうどいい弾力のひき肉は明日になっても硬くならない。何度も食べているのでわかる。
学生食堂にもロールキャベツはあるが、ある日のものは水っぽく、違う日には締まって縮んでいた。
もっと早く気づくべきだった。竹下の愛情の深さを。温めなおしたときにもおいしいのが当たり前だと思っていた。
ひとりで食卓につく春樹の孤独が紛れるよう、考えて作ってくれていたのだ。
洟をすすって食べた。むせても食べ進めた。多めによそった炊き込みご飯も、一粒残さず噛みしめて食べた。
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