Cufflinks

第一話・焔 第四章・1


 翌朝。起き抜けの頭にあったのは学校を休みたいという欲求だったが、キッチンに入って怠け心が消えた。
 熟睡できなくても臭覚は働く。血肉になるように、寂しくないようにと作られたロールキャベツの匂いが、幼稚な考えを退治してくれた。
 玄関ドアが開く音がした。脱衣所から首を出す。高岡が春樹の靴を見下ろしていた。自分の靴を揃えると、目だけで春樹を見る。見るというより睨みつけるといったほうが正しい。嫌な予感に春樹の頬が引きつる。
「靴を磨いたことはあるか」
「え……」
 高岡がつまみ上げるようにして春樹の靴を持つ。かかと部分を指に引っかけてぶらぶらさせた。
「答えるのに難しい質問とは思えんが。あるかないか、どちらだ」
 高岡の指先で揺れるローファーには雨染みができていた。春樹はスニーカーや上履きすら洗ったことがない。革靴磨きの経験もなかった。
「……ないです」
 ため息をついた高岡が靴を置く。いつもどおり勝手にスリッパを履き、リビングに入っていった。
「まだ湿気がある。乾いたら手入れに出せ。替えの靴はあるのか」
「あります。スニーカーですけど」
 学校指定のローファーの他に、地味な色のスニーカーなら可とされていた。言われないうちに靴箱から出しておく。
 リビングの壁にもたれた高岡がこちらを見ていた。一応身支度はしたつもりだが、おかしいだろうか。怖さより奇妙な恥ずかしさがあり、顔が熱くなる。高岡はベランダに続く窓に目を移し、ものやわらかな声で言った。
「ぐずっているかと思ったが。少しは成長しているようだな」
 そう言うと、ダイニングテーブルにコンビニの袋を置いて椅子にジャケットをかけた。ソファに腰かけてテレビをつける。
「昨日預かった服だが、クリーニングに出したので仕上がり次第渡す。送ってやるから身支度を続けろ」
 テーブルに置かれた袋からは、サンドイッチと野菜ジュースが透けていた。
(こいつ……今朝も心配して来たのか)
 春樹はテレビを眺める高岡に一歩近づいた。
「今朝はどうして来てくれたんですか」
「家政婦を退職させると伺った。乳離れのできない仔犬が登校拒否する理由になると思ったからだ」
「心配……だったからですか?」
 ひと睨みされたが、精悍な目はテレビに移った。
「答える必要はないと思うが。朝食でも食べたらどうだ」
 動物みたいな目はテレビのニュースを追っている。眉間のしわは昨日ほど深くはない。
 春樹はコンロの火をつけた。皿にロールキャベツをふたつ盛りつけ、ダイニングテーブルに置く。春樹が食べるものと思っているのか、高岡は脚を組んでチャンネルを切りかえていた。
「高岡さんも食べてください。ロールキャベツ、おいしいですよ」
 これ以上ないというくらい、明確に睨まれた。親のかたきでも見るような目だ。思わず足がすくむ。
「要らん。動物性タンパク質なら足りている。腹も減っていない」
「教えてほしいことがあるんです。食べてくれないと説明しにくくて……」
「要らんと言っている。訊きたいことがあるなら今言え」
 トゲのある空気が高岡を包み始めた。春樹はゆっくりと膝を曲げる。
「食べてくれるまでここをどきません」
 床に正座して高岡を見た。高岡は数回チャンネルをかえたあと、舌打ちして立ち上がった。キッチンに向かいがてら、春樹の頭をはたいていく。
「強情な上に気が利かんな。飯ぐらいよそえ」
 腹が減っていないと言ったのは誰だ。
 高岡が炊飯器を開ける。炊き込みご飯のいい匂いがして、テーブルに湯気の花が咲いた。


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