Cufflinks

第一話・焔 第四章・1


 コンビニで買ったビニール傘を大粒の雨が打つ。
 目の前には新田の自宅の門扉がある。ごく普通の小さな門だ。
 二階にある新田の部屋を仰ぐ。淡い墨色の空の中で、少し開いた遮光カーテンから灯りが見えていた。
 会うつもりで来たのではない。春樹が無事だとわかれば新田も少しは気が安まるだろうと思った。
 門扉の内側に手を伸ばした。引っかけてあるだけの錠を上げて外す。深呼吸をして敷地内に踏み入った。
 玄関の脇に郵便受けがある。この箱の中に新田の財布を入れて、メールをすればいい。
 赤い金属製の箱に指先がついたとき、昨夜電話で聞いた女性の声がした。
「どちら様……?」
 開けっぱなしの門扉の向こうに、買い物袋を提げた中年女性が立っている。新田の母だ。新田の部屋にあった家族写真の中にいた。
 無断で敷地に入って郵便受けに触れた春樹を見る目は、優しくはなかった。
「あ、か、勝手に入ってごめんなさい。丹羽といいます。先輩に返すものがあって」
「……昨夜の電話の子? 修一の、後輩の」
「はい。あの、これ、これを」
 ばか正直に新田の財布を出した。手渡してほっとしたのだが、新田の母は違った。
 新田に似た一重まぶたの目には、警戒の色がありありと浮かんでいた。
「どこでこれを? あの子は昨夜、どこかわからないところで落としたと言っておりましたが」

 何故、財布を後輩が? 学校で返せばいい。今返すならどうして会おうとしない?
 怪我をした息子にとって、この少年はどういった存在なのだ。
 息子の怪我にかかわりがあるのではないのか。

 母親の疑念が伝わる。自分のしでかしたことの大きさを知るには遅すぎた。
 不意に背後で玄関ドアが開いた。
 玄関を上がったところに新田がいた。顔は腫れてアザがあるが、何にもつかまらずに立っている。歩ける怪我なのだ。春樹の口から安堵の呼気が出た。
「園芸クラブの後輩だよ。雨の中来てくれてありがとう」
 ありがとう、が平らだった。
 今の新田は空洞のある老木に見える。いつもは澄んでいる目に、膜が一枚かかっていた。
「上がってくれ」
 淡々と言って階段に向かう新田は、桜の木の下で微笑んで待つ人ではなかった。


 新田の部屋は消毒薬と湿布の臭いがした。出された麦茶のコップは、ふたつとも盆に置かれたままだった。
 パイプベッドの上で足を投げ出して座る新田には、肌掛けが腹までかかっている。近くで見ると顔の腫れがひどい。歯が折れたりはしていないとのことだった。
「痛みはどう……? 昨夜、財布ないのにどうやって帰ったの?」
「多少マシになった。小銭がポケットにあった。ゲームセンターで使った残りの」
「そうなんだ。病院、行った?」
 新田がうなずく。春樹を見ずに、処方薬の袋を指し示した。
 何度目かわからない沈黙が始まる。膝の上で組む春樹の指先が、徐々に白くなっていく。
「修一のクラスに行ったのに、プリントとか、持ってこれなかった。ごめんね」
「やめてくれ!」
 文庫本が床に投げられた。跳ねた本の表紙が折れる。
 顔を真っ赤にして口もとを歪めた新田が、身を乗り出して叫んだ。
「今聞きたくないのは、ごめんっていう言葉だ! お前は昨夜、電話してくれたそうじゃないか。俺は何もしなかった! 見捨てたんだ俺は、お前を!!」
 厚めの唇もあごも、肌掛けをつかむ大きな手も、わなないていた。新田は横になり、頭から肌掛けを被った。
「守れなかった。今度こそ、取り返しのつかないこと……した」
 新田の肩が震えている。割れる語尾も不規則に吸い込む息の音も、初めて聞いた。
 こんなときに来てはいけなかったのだ。新田を安心させようなどと、思い上がっていた。
 立ち上がって通学鞄を持った。文庫本を拾い、勉強机の上に置く。
「長くいると体にさわるよね。帰ります」
 静かに扉を開く。視界が揺れて階段を踏み外しそうになった。
 一階では新田の母が粥を作っていた。春樹だけが一礼する。
「お邪魔しました」
「もう帰るの? 気をつけてね」
 台所から聞こえる声は、心から春樹を気にかけるものではなかった。粥の匂いに押し出されて外に出る。
 傘を打ち破りそうな雨が、春樹の帰路をふさいでいた。


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