Cufflinks

第一話・焔 第四章・1


「つめた……! やめ、やめてください!」
 逃げまどう春樹の頭や背中を、容赦なく冷水が打つ。
「くだらない理由で休める身分か。何のために体を売っている」
「それ、それは、修一のそばにいたいから」
「では訊くが」
 水がとめられる。頭を覆って恐る恐る高岡を見上げた。
「授業の遅れを自力で取り戻せるのか。進級できなければ社に見限られるぞ。退学してもいいのか」
 心臓を氷の手でつかまれた。
 シャワーヘッドを壁にかけた高岡が片手を突き出してきた。
「早く脱げ」
 上を脱いでおずおずと渡す。高岡の手がパジャマの下に触れようとしたとき、無意識に腰を引いた。
「じっ、じぶ、自分で脱ぎます」
「いい加減にしろ。濡れたままでぐずぐずするな」
 無理やり脱がされそうになり、目尻が水ではないもので濡れた。何度も春樹を抱いた男の前での不可解な行動に、働きの悪い頭が悲鳴をあげた。
「やめてください! 自分で脱ぐから……!」
 高岡の目が怪訝なものになる。いぶかりながらも、短気な男が春樹に背を向けた。
「見ないようにしてやる。さっさと脱いで渡せ」
 リレー走でバトンを受け取るときのように、片手を後ろに伸ばしてきた。
 広い背中が「うんざりする」と言っているようで、胸の奥が痛んだ。
「早くしないか」
「は、はい」
 脱いだものを手渡すと、高岡は振り返らずに浴室から出ていった。扉が完全に閉められる前に、少し低い声がした。
「よく温まれ。髪も乾かしてこい」
 浴室の扉が閉まり、ビニール袋が摩擦する音がした。


 サンドイッチをかじる春樹の向かいに高岡が座っている。高岡はテレビもつけずに新聞を読んでいた。
 コンビニのサンドイッチも野菜ジュースも、高岡が買ってきたものだった。
「あの……」
「何だ」
「服、どうするんですか……? 下着も……」
 玄関の手前にビニール袋がある。中はゴミだらけになった服と、浴室で高岡に渡したものだ。
「洗っておいてやる。次回会ったときに渡す」
「そんな、悪いです。家政婦さんに洗ってもらいます」
 高岡が新聞をたたんだ。鋭く光る目で射貫かれる。
「服が汚れた理由は訊かんが、家政婦にはどう言い訳する」
 言い訳を考えていなかった。
 ゴミが付着するようなところで転んだと言えば、喧嘩でもしたのではと思われる。からくも疑われずにすんだとしても、竹下は優しい。転んだときに怪我をしなかったか、貧血でもおこしてゴミの上に倒れたのではと心配する。
 新聞の端がダイニングテーブルを叩いた。
「残さず食べろ。食べたら登校の用意だ」
 口の中だけで返事をし、詰め込むようにして食べた。パンもハムも生野菜も玉子の味も、通常の十分の一程度にしか感じない。砂を噛んでいるみたいだった。
 最後のひと口をジュースで飲み下す。正面にいる高岡は頬杖をついていた。
「須堂からの電話では皆目わからないから来た。気に入らないだろうが文句を言うな。俺は朝が最も機嫌が悪い」
 あれだけ迷惑をかけたのだ。須堂が高岡に電話したことを責める気も、権利もない。
 ただ、昨夜の二度目の涙を──須堂の車内で否定した事柄を知られてしまったかが気になる。
「須堂さんは、何て……?」
「今躾けている商品が学校に行くか見てやれ、としか言わん」
 新聞を広げる高岡に朝の陽が射す。まぶしそうに陽射しを避けるのは、瞳の色が薄いからだろうか。
 夜の世界に生きるからなのだろうか。
「あ……の、お仕事で疲れてるのに来てくれて……ありがとうございます」
 新聞がぴくりと動いた。恐ろしいほど強い眼光が、新聞紙の縁を焦がしそうだった。
「仔犬も朝が苦手なようだな。俺は食べたら何をしろと言った?」
「と、登校の用意です」
「わかっているなら実行しろ」
 春樹を見ると苛立ちが増すのであろう。高岡は新聞から目を離さなくなった。


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