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第一話・焔 第四章・1


 警官を連れた新田がホテルの前に躍り出た。
 ホテルと雑居ビルとの間はあまり距離がない。ここからでもホテルの入り口が見える。
 警官はひとりかと思ったが、自転車を押してくる警官もいた。ふたりの警官の前で新田が路上を指す。両手を広げて何ごとか訴えているようだ。声は聞こえないが、暴行の事実を説明しているのは明白だった。
「おれが思うに、あのガキはまた逃げる。今度のも正しい逃走だ」
 何を言っていると思う間に、新田がひとりの警官に詰め寄られた。もうひとりの警官は、自転車の荷台にある四角い箱の上でバインダーのようなものを開いていた。無線機を使って話しているようにも見える。
「追っつけ応援が来るぞ。あのガキの行き先はいくつかあんのか?」
「行き先?」
「自宅の他に行くとこあんのかってことだ。お前以外のダチんとことか」
 優しくても不動明王を背負う男だ。トラブルの先は容易に読めるのかもしれない。
「修一は先輩だから……クラスメートや、昔の友達までは……」
「お、逃げた」
 詰め寄っていた警官が横を見た隙に、新田が駆け出した。全速力で新宿駅の方に走っていく。
 新田を追う警官はひとりだけだった。自転車も使わない。一分も経たないうちに、追っていた警官が歩いて戻った。自転車の脇にいる警官と言葉を交わす様子には、緊迫した空気はなかった。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。やはり応援を呼ばれたのだ。須堂が立ち上がって窓を閉める。
「行くぞ。ダチの自宅に案内しろ」
「え……」
「ダチが家に帰れたかわかるまで、そばにいてっつっただろ」
 サイレンが近づく。視界の端に赤色灯の灯りが見えた。手を引かれたが、春樹は畳の上で踏ん張った。
 須堂は元暴力団関係者だ。警官がいるのに歩かせたくない。痛くもない腹を探らせたくなかった。
「も、もう大丈夫です。走れるなら修一の怪我もひどくないと思うし。電話して確かめ」
 グローブのような手が春樹の頬をつかむ。義指で隠れてはいるが、二本の指が途中からなくなっている左手だ。血の気が引いていく。
「あのガキが何で戻ってきたか、わかるか」
 褐色の瞳に見据えられる。不動明王に裁かれている気がした。
「おまわり呼べば根掘り葉掘り訊かれる。それがわからねえガキじゃないだろ、あいつは。賢そうなツラしてたもんな。それでも来たのは、お前がどうなったか心配だったからだ」
 須堂の手が離れた。バッグを渡される。
「このまま帰って後悔しねえなら、お前の家に送ってく」
「でも……でも、須堂さんが、警察が」
「裏から出る。警察もすぐに引きあげる。変なとこに気をつかうな」
 戸を開けた須堂があごをしゃくる。春樹はうつむき、背中を丸めて階段を下りた。


 店ではカラオケの伴奏が流れていた。マイクを持った客がドアのすき間から外を覗いている。パトカーが気になるのだろう。別の客は泥酔してカウンターに上半身をあずけていた。
「智輝」
 女性の声が硬い。須堂を見たままカウンターの端を上げる。春樹は須堂に背中を押されてカウンター内に入った。
「大丈夫だ。邪魔したな」
 また背中を押された。キッチンとカウンターを仕切るのれんをくぐる。須堂が立ちどまった気配がしたので、春樹も後ろを見た。女性が折りたたみ傘を手渡していた。
「返すときは、アキラ連れてきてよね」
「わかったって」
 須堂がキッチンの勝手口を開ける。アスファルトの小さなへこみに雨水がたまりかけていた。


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