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第一話・焔 第四章・1
翌日は風のある日だった。気温は前日より高いが、髪をそよがせる風が大気の熱を下げる。
稲見の車から降りた春樹はロビーに入り、顔も覚えたコンシェルジュに連れられてエレベーターホールに向かった。
最奥のエレベーターに乗る。レストランに直行するエレベーターは外が見えるようになっていた。濃い青になっていく空に春樹の横顔が映る。
今朝は桜の木の下に掃いた跡があった。学生食堂で新田の姿を見た。ひたいの絆創膏は少し小さくなっていて、口の横はカット綿ではなくて肌色のテープになっていた。
『歩道橋の階段から落ちたって? お前、意外とドジだな』
新田と同席した生徒が言っていた。笑って返す新田は、春樹と目が合う前に席を移動した。春樹の心にはまたひとつ裂け目ができ、トレイを持つ手が震えた。
どうしていいのかわからない。つらいと伝えろと言われても、新田に近づけないでいる。片想いどころか、出会う前に逆戻りしていた。
「どうぞ。入り口までご案内いたします」
深い赤を基調とした絨毯が、長い廊下に敷きつめられている。突き当たりに見えるレストランの入り口が遠い。
(集中しろ。相手は塔崎、しくじるな)
腹の底に力を入れ、暖色の光を漏らす仕事場を見た。
必ずのませなければならない要求がある。失敗は許されなかった。
甘くソテーした大根に辛子がきいたムースが添えられている。これの前はエスカルゴの何とかだった。
「そのフォークでいいよ。食べにくいようだったら、そちらのスプーンでも。大根のキャラメリゼにムースをつけてみて」
大根にキャラメルをかけたのだろうか。初めて目にする料理だった。
「おいしいです……あ、辛い」
春樹の素朴な感想が塔崎の笑顔を誘う。個室に通されたときは尻込みしたが、塔崎は今夜も春樹を気遣った。
ずらりと並ぶ食器類は、給仕人ではなく塔崎が教えた。順序が多少入れ替わっても、食べやすいもので食べるのが一番だとも言った。
枠にはまらない作法は余裕を生んだ。料理を引き立てる皿、ロウソクの灯り、花を観賞する余裕も出てくる。
(これなら切り出せるかもしれない)
タイミングをはかる春樹の前に意外な料理が置かれた。牛の頬肉が乗ったピラフで、スプーンで混ぜて食べろという。
「今は賑やかにしていい時間だよ」
塔崎は皿にスプーンが当たるのも構わずに混ぜた。部屋の隅には給仕人が立っているのだが、驚く様子もない。
「やってごらん。楽しいよ」
「あ、はい」
遠慮がちに混ぜていたら、もっともっと、と塔崎が言う。塔崎を真似て頬肉を切り崩し、肉汁やソースが米に絡むように混ぜてみた。原始的な作業には理屈抜きの楽しさがある。自然とふたりの顔が向き合った。
デザートのアイスクリームを食べ終えるころには、給仕人が皿を下げにきても談笑しているまでになっていた。
コーヒーと紅茶が運ばれる。口数の多かった塔崎が黙りこくった。カップを口に運ぶ春樹を見つめる。ハンカチを出して汗をぬぐい、給仕人を見る。給仕人は静かに個室から出ていった。
ふたりきりになったレストランの個室で、塔崎が身を乗り出す。
「ハルキくん。僕はきみにとっての、何?」
食事をして会話を楽しみ、汗もふいていた割に顔色が冴えない。目つきが真剣だ。
自身の望みがちらついていた春樹は、塔崎の真意に気づかなかった。
「はい、あの……とても大切なお客様です」
塔崎の目に影が落ちる。伏し目になり、背を丸める。誰が見ても落胆がわかるような姿勢になった。
「そうだよね。ごめんね、困らせるようなことを訊いて」
「いえ、そんな。お料理おいしかったです。エスカルゴも、頬肉がご飯に乗ったのも、どれもおいしくて、その」
春樹の言葉だけが宙を漂った。上滑りして、塔崎にはカケラも届いていない。
「……帰ろうか。平日に来てくれてありがとう」
塔崎の声質が変わった。テーブル脇の補助卓に置かれたベルに手を伸ばす。あれが鳴ったら会計だ。
焦りが春樹を誤った行動に駆り立てた。席を立って補助卓を動かす。目を丸くする塔崎の足もとに土下座した。
「お願いします! 家政婦を助けてください。塔崎様しか頼る方がいないんです。何でもします! お願いします……!」
絨毯にすりつけるほどに下げた頭を高岡の言葉がよぎった。
『何でもするは禁句だ。何があっても客の前では言うな』
初めて抱かれた日の翌朝に、車の中で言われた言葉だ。
(かまうもんか。塔崎は乱暴な男じゃない。無理なことを強要したりしない)
塔崎の手が頭に置かれる。顔色がよくないと思ったのだが、熱い手だった。
「顔を上げて。詳しく話してみて。きっと力になるから」
裕福な客を仰いだ。塔崎の顔は上気し、瞳には見たことのない光が宿っていた。
< 第四章・2へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第4章・2のupまでお待ち下さい。
喉元過ぎれば熱さを忘れるのでしょうか。
忠告を聞いてもらえない高岡の立場は(笑)
次回はエロがあるかも? お相手は誰?
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