Cufflinks
第一話・焔 第四章・1
車が社をあとにして少し経つと、高岡に睨まれた。シートベルトを握る手が汗ばむ。
「何が目的で社に来た」
「だか、だから、呼ばれただけ、です」
運転席に座る男はサングラスをしていない。対向車のライトが切れ長の目を照らす。青みがかった白目の端から端まで、ひと筋の光が駆け抜けた。刃物が光を反射するようで、春樹は唾を飲み下した。
「稲見さんに感謝することだな」
「え……」
「彼は好人物だ。商品が抱える悩みも報告の必要がなければ明かさない。嘘とわかる嘘をついても守ってくれる。大方家政婦の復職でも頼みにきたのだろう。違うか」
社がある方角を振り返る。知らなかった。春樹の言動は稲見によって筒抜けになるのだと思っていた。
稲見の説教を聞き流してきた自分に赤面し、両手で顔を覆った。
「復職は叶えられそうか」
くぐもった声で「いいえ」と答える。手をどけてルームミラーを見ると、高岡は無表情な顔で前方を見ていた。
「何か得たものはあったか」
「……僕が安い商品だとわかりました」
「ようやく理解したか」
高岡の声に嘲笑ではない笑みが含まれる。赤信号の手前で左車線に入った。ウインカーのリレー音とアイドリングの音しかしない。カチカチというリレー音に追い立てられ、春樹の口が開いた。
「修一が……僕を見て怯えます」
返答はなかった。ルームミラーを見ても視線は交わらない。春樹の言葉もなくなり、信号待ちの間無言になった。発進した車は左折し、高岡の手の中でステアリングが滑る。抜け道を使うのか、飲食店街に続く道に入った。
「では新田の前から消えるか」
整った横顔は前を見たままだ。春樹はかぶりを振り、反論を試みようとした。
が、口から出たのは違う言葉だった。
「あれっ。井ノ……上」
高岡の向こうに暴漢の片割れである井ノ上がいた。泥酔した男を支えて歩いている。酔った男はうつむいているため顔が見えない。井ノ上はあのときと同じ、軍靴に似た靴を履いていた。角を曲がって路地に入っていく。
「酔っていない方が井ノ上というのか。何者だ」
「はい、修一を殴った男の仲間です。須堂さんは知ってるみたいで、えっと、磯貝んとこの、って!」
タイヤが鳴って車がとまった。急ブレーキの音に、居酒屋の前を掃除していた店員が振り向く。
高岡はミラーから目を離さずにギアを入れなおした。井ノ上たちが消えた路地を避けるように大通りに出る。
車が増えて徐行運転になるまで、高岡は口をきこうとしなかった。
「磯貝と、確かに聞いたのか」
「は、はい」
「間違いないか。何故月曜の朝に言わなかった」
月曜の朝、起きたばかりの春樹に一分以内での説明を求めたのは高岡だ。要約するだけで手一杯だったし、忘れていることもあった。井ノ上も磯貝という名も忘れていたが、先ほどの道は細く、歩道との区切りも曖昧だった。近い距離で井ノ上を見たのだ。見間違えではない。
「間違いないです。言わなかったのは忘れてたからです。ほんとです」
高岡が小さく「くそ」と言った。明らかに苛立った様子で車外に目を走らせる。
「磯貝の名は今ここで忘れろ。誰にも言うな。約束しろ」
「え?」
絆創膏の貼られた手が春樹の首を押さえた。力がこめられ、脈が大きく打つ。
「約束しろと言っている」
動く範囲で首を縦に振った。強く押さえられているため声が出ない。苦しさと恐怖で目をつぶった。
まぶたの裏の色が変わる寸前で手が離れる。咳き込む音に高岡の低い声が被さった。
「つらいことはつらいと新田に伝えろ。お前がひとりで苦しめば新田も同じ思いをする」
「……は、い」
意思とは無関係の返事をした。言えるわけがない。新田を沈めた張本人は春樹だ。
道が空くと、持ち前の強引かつ身勝手な運転になった。初めて同乗させられたときより危険な運転だった。
「もう嫌だ。いつか事故起こす」
春樹はネクタイをゆるめ、ソファに倒れこんだ。ローテーブルに置いたクリーニング店の袋を見る。月曜の朝に高岡が持っていった衣類だ。明日から他県で仕事だという高岡から渡された。下着は新しいものが購入されていた。
目を閉じると人の形が浮かび上がる。
通学鞄を提げた新田の顔──怯えた顔が焼きついて離れない。
新田は眠れているだろうか。勉強は手についているだろうか。怪我の原因を訊かれて耐えていないだろうか。
まだ春樹をかばってくれるのだろうか。
(助けて)
誰に助けを求めているかもわからないまま、クッションに顔をうずめた。
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