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第一話・焔 第四章・1


「家政婦さんのことって。無理だよ。もう決まったことだから」
 煙草を灰皿に置いた稲見が言った。熱そうにコーヒーをすする。喫茶室は送風されていて肌寒く、ホットミルクティーも湯気をたてていた。
「稲見さんも見ましたよね、塔崎様からの百万円。僕の頼みだと社に掛け合ってもらえませんか? いい条件の職場を用意していただくか、退職金を増やしていただくか……お願いします。ただの家政婦さんじゃないんです」
 竹下は母代わりだ。あらゆる手段を講じずにあきらめるなど、到底できることではなかった。
 しかし稲見は眉間にしわを刻み、難解な外国語を聞くような顔でこちらを見ていた。
「も、もっと働きます。家政婦さんのお給料を出す余裕がないなら」
「きみねえ。金の問題じゃないんだよ。そもそもね」
 稲見が煙草を消す。テーブルに両肘をついて前かがみになり、小声で続けた。
「あのチップは確かにすごいが、上には上がある。一度の基本報酬が五十万の子や、宴席に同席して数百万の時計や車をせしめる子がいるんだ。きみはまだ人ひとりの人生をどうこうできるほどじゃない。家政婦のことはあきらめなさい。退職金も破格で本人も納得しているのだから」
 意気込みだけでは言葉が続かない。稲見が椅子に深く座った。呆れた、といった目をしている。
「生活なら心配しなくていい。今度のマンションはホテルでいうところのフロントがあって、クリーニングは下着一枚から出せる。靴も磨いてもらえる。食事のデリバリーも取り次いでくれる。掃除は業者が入るし、不自由はないよ」
 椅子を蹴って立ち上がりそうになった。安全のための引っ越しではないのか。ホテル並みのマンションをいつ希望した。業者が掃除するなら竹下を雇えばいいものを。
「そんなすごいとこじゃなくていいです。その分を竹下さんのお給料に」
「春樹くん」
 コーヒーカップが音をたてた。隣席に座る人の視線を誘う音だった。
「きみの名前を出しても何の効果もない。この件で話し合いの余地はないよ。今日はこれを持って帰りなさい」
 ミルクティーの横に封筒が置かれた。銀行の預金通帳が入っている。印鑑とキャッシュカードもあった。
「きみの口座だ。暗証番号の変更方法など、わからないことは銀行に訊きなさい。明日は六時に迎えにいく。きれいな制服を着て待っているように。いいね」
「は……い」
 男に媚を売るたびに開く通帳か。金額が増えるごとに大切なものを失うのだろう。
 レシートを持つ稲見に続く。煙草の煙が充満する中、終始下を向いて歩いた。


 涼しいのは喫茶室だけだった。館内全体の空調設備はないとのことで、粘り気のある空気がまとわりついた。
 父がいる社屋とは違い、旧館には自動ドアもない。開け放された分厚いガラス扉から時々風が抜けるが、汗が背中をつたいそうだった。稲見がハンカチで首をぬぐう。
「まるで夏だね。じゃ、寄り道しないで……と。高岡さんじゃないか」
 細い舗道を挟む本社ビルから見慣れた長身が出てきた。ラフなスーツではなく、三つ揃えを着ている。
「高岡さん! お疲れ様です。明日から出張と伺いましたが」
 陽気に呼びとめる稲見に気づき、高岡が一礼した。やわらかい笑顔で返す。
「お疲れ様です。午後からの仕事が一件キャンセルになりまして。懐が心許ないので巻き返しです」
「ご冗談を。あ、一服されますか?」
 煙草が吸い足りないのか、稲見が旧館を指差した。
「せっかくですが。ところで、何かご迷惑でも」
 微笑みこそ消えていないが、春樹を一瞥した高岡の目は冷ややかだった。稲見がからっとした声で答える。
「何もありませんよ。頼んで来てもらったんです。来客があると抜け出しやすいもので。禁煙ファシズムには辟易です。放課後に申し訳ないと思いましたが、禁断症状が出そうでして、ええ」
 嘘をつく稲見を見上げた。人のよさそうな顔で笑っている。高岡は何も気にしていないようだ。
「そうでしたか。この子は僕が送りましょう。お先に失礼します」
 稲見は本社の社屋に、高岡は駐車場の入り口へと向かう。命じられはしなかったが高岡を追った。


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