Cufflinks
第一話・焔 第四章・1
朝の校庭に竹ボウキの跡はなかった。大量に雨が降った翌日は土のある部分に入ることは禁止されている。足跡がついて凹凸ができるからだ。
ほとんどの生徒が正面玄関ホールに向かう中、春樹は花壇に沿って校庭を一周した。旧校舎の裏にも校庭があり、バスケットボールとテニス用の特殊な舗装が一面に施されている。新田は清掃時に旧校舎裏のゴミも拾う。一周する際に覗いてみたが、運動部員が使う箇所以外はゴミが転がっていた。
シバザクラが覆う石垣の前を通る。だいぶ花を落としていたが、新田と植えたものだけは三分の二以上咲いていた。石垣の縁から垂れている部分に触れる。ちぎれそうになっているが、引っぱってもつながっていた。昨夜の豪雨で花は散っていたが、茎はしっかりしている。傘が飛ばされそうな風雨でも、手をつないで陣地を守ったのだ。
始業前の予鈴が鳴るまで、雨粒を残す可憐な花を見ていた。
二時限目の授業は視聴覚室で行われることになった。視聴覚室は二年生の教室と同じ三階にある。春樹の隣を歩く森本の顔色が悪い。ひたいに汗が浮いていた。
「悪ぃ。持っててくれ」
森本は春樹に教科書類を渡し、階段を上がってすぐのトイレに駆け込んだ。春樹は廊下の壁にもたれた。見ないようにするのだが、足音がするたびに二年生の教室に目がいってしまう。
誰かが階段を上ってくる。今日は暑くて湿気が多い。湿った床面で上履きが鳴る、独特な音がした。
少し伸びた黒髪が見えた。ひたいに大きな絆創膏がある。口の横にカット綿がとめられ、変色したアザが覗いていた。
通学鞄を持った新田だった。
最後の段を上がるとき、新田が膝の上に片手を置いた。眉を寄せて顔をしかめる。
「修一!」
新田が顔を上げた。目が大きくなり、唇が薄く開く。
怖いものを見るような表情だ。青ざめた顔で視線をそらし、教室へと歩いていった。
(修一)
「丹羽、あんがと。どうした?」
ハンカチで手を拭いた森本が自分の教科書を持つ。春樹は新田を追う目を森本に向けた。微笑んで首を横に振る。新田への想いを知られてはならない。
「何でもない。行こう」
唇の内側を噛み、新田の教室に背を向けて歩き出した。
夕方の駅ビルは混雑していた。二階の商業エリアには回廊状の歩廊があり、外側がガラス張りになっている。春樹はガラスの内側にある手すりにもたれて線路を見ていた。
携帯電話が長く振動した。『会社携帯』がスクロールしている。稲見からだった。
「ああ春樹くん。もう学校終わったよね、今どこ?」
「学校の最寄り駅です」
「明日、塔崎様と食事をしてほしいんだよ。いつものホテルで食事だけ。平日で悪いけど、何とかならないかなあ」
放課後は避けると言っていたはずだが、所詮は汚れ仕事。こんなものだ。
快速電車が走る。オレンジ色の空は明るさを残しているため、ガラス面は鏡にならない。ガラスが鏡なら、間違いなくみすぼらしい春樹が映っているだろう。新田の青い顔が浮かんで消える。
「もしもし、春樹くん? もしもし!」
「……わかりました。お受けします」
電話機の向こうから、安堵だとわかる吐息が聞こえた。
「助かったよ、ありがとう。何しろきみは、塔崎様の大のお気に入りだから」
ホームから警笛が聞こえる。春樹の頭の中で未知の回路がつながった。
(塔崎は上客だ。上客に気に入られている点を……利用できないだろうか)
携帯電話を両手で持つ。明日の予定を言いかけた稲見を遮った。
「今日、お時間ありますか? 今から会社に行ってもいいですか?」
「時間はあるけど、別に来なくても」
「旧館の喫茶室で待っててください! すぐ行きます!」
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