Cufflinks
第一話・焔 第四章・1
異臭が消えない。ホテルにほど近いスナックの、トイレの臭いだった。
ホテルからひとつ離れた四つ角に雑居ビルがある。一階角が狭いスナックになっており、唯一のボックス席に春樹は座っていた。背もたれの真後ろにトイレがあり、下水から上がったような臭いが漂う。
ホテルの前で春樹の涙をぬぐったあと、須堂は新田の財布を拾った。踏み砕かれた防犯ブザーもきれいに片づけた。しゃくりあげて意味もなく謝る春樹を、少し休もうとここに連れてきたのだ。
「降りそう。智輝、その子具合でも悪いの?」
店のママだという女性がドアを開けて言った。須堂より少し年上に見える、大柄な女性だった。
須堂はウーロン茶のグラスを置いてスツールから下りる。カウンター席には他にふたりの客がいるが、ひとりは眠っており、もうひとりはカラオケの選曲用リモコンを触っていた。
「こけただけだ。上の部屋使っていいか」
「いいけど」
春樹はテーブルのグラスをぼんやり見ていた。オレンジジュースは減っていない。須堂が立ったままグラスを寄せる。
「いらねえのか?」
うなずくだけだった。暴漢から逃げるときに転んでできた傷は消毒され、絆創膏が貼られている。手の側面をほんの少し擦りむいた。体はどこも痛くない。
何があったのか、女性に手当てしてもらいながら話してあった。須堂に訊かれるまま受動的に。
新田が逃げたことを言っても心は動かなかった。胸の黒いモヤも今はない。
二の腕を軽く引かれて立ち上がる。春樹のバッグは須堂が持ってくれていた。
「おにぎりでも作ろうか」店のドアを閉めながら女性が言う。
「いい。長居しねえから」
女性がカウンター内に戻った。リモコンと格闘している客に笑いかけ、選曲を手伝う。
「たまにはアキラ連れてきて。あの子いると、臨時の女の子が来てくれるから」
わかった、と片手を振り、須堂が靴を脱いでトイレ横の急な階段を上がる。二階に着くとカラオケの前奏が始まった。
階上の引き戸が開き、むっとした空気が流れてきた。室内は暗く、数歩進むと脛に硬いものが当たった。
「気をつけろよ。とっちらかってるからな」
電灯の紐が引かれる。明るくなった足もとには折りたたみ式の座卓があり、春樹の脛と座卓の縁がくっついていた。
窓が開いて新鮮な空気が入る。女性が言ったとおり雨が降りそうな風だった。
四畳半の部屋には家具や物が多く、畳が見えるのは二畳ほどしかない。座卓の上も化粧道具や食べかけのスナック菓子の袋、空のペットボトルなどで埋めつくされていた。
「修一ってのとは、要するにできてんだな?」
「できて……は……その、いない……です」
消え入りそうな声に須堂が振り返った。窓際にどかっと座って外を見る。
「やったかどうかは問題じゃねえ。好きなのかってことだ」
好きです、と言おうとした。息は苦しくない。胸も痛くないのに発音できなかった。
須堂が小さな目をこちらに向けた。じっと見ると春樹が下を向くとわかっているのか、すぐに窓の向こうを見やる。
この店に来てから須堂は外を気にしている。女性に店のドアを開けさせたのも須堂だった。
「ま、いいけどな。来たぞ。見てみろ」
(来た……?)
須堂と並んで外を見た。長袖Tシャツを着た、春樹より背の高い少年が走ってくる。
「修一!」
次のページへ