Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
自宅マンションに着いたのは夕方少し前だった。
バッグをソファに置く。クッションを抱いた春樹の頭で壬の言葉が再生された。
『三浦勇次は養子らしい。兄がハメを外して行方不明者を出しても尻拭いしてもらえるけど、弟はそうはいかない。それがわかってるから、弟はひとりで遊ぶときには無茶をしないってわけ。三浦家の話題に触れて突然殴られた子もいた。コンプレックスがあるのかもしれない。同情を嫌うところがあるから、気をつけて』
勇次の口ぶりに譲歩した感があったのは、生家にかばってもらえないためなのか。だから高岡も無関心だったのだ。勇次が単独でいるかぎり大きな危険はないと、知っていたのだ。
公園のベンチで見た勇次の髪は全体に癖があり、三浦とは違った。体温も手の厚さも、体付きも違う。血のつながりがないなら外見が似ていない点も納得がいく。三浦の姓を名乗っていても、自分の領分は心得ているのだろう。
勇次が本当に養子ならありがたい。保身をはかる男となら、少しは安心して接触できる。
立ち上がった拍子にバッグが倒れた。携帯電話が滑り落ちる。
ソファに座りながら新田の番号を表示させる。通話ボタンに触れただけの指が動かない。
雑居ビルの医院で刺激の少ないローションを分けてもらった。新田とひとつになりたい。少しでも早く。それなのに、新田への連絡を忘れていたなんて。
バックライトが暗くなる寸前で通話ボタンを押した。呼び出し音が続くにつれ不安が増す。
どうして受診してすぐにかけなかった。
新田はそんなことを言わないとわかっていても、手の平が汗ばんでくる。
雑音と共に新田の声がした。ナイロン製の何かがすれるような音がして、受け答えの声が時おり遠くなる。新田と女の子が言い争っているようだ。扉を閉めたのか、女の子の声が小さくなった。
「ごめん、春樹。荷造りしてたんだ。妹が冷やかすから……うるさくして悪かった」
「荷造り? どこかに行くの?」
「今夜から担任の家で、ちょっとした勉強会なんだ。補習用の資料を作るうちに調べたいことが出てきて。泊り込みで明日まで。クラスのやつら数人と」
弾む声から新田の顔が想像できる。勉強会が楽しみなのだ。無言になった春樹に違和感を感じたのか、新田の声のトーンが変わる。
「どうした? まだ傷が痛いのか?」
「う、ううん。先生の家で勉強したことなんてないから、すごいなって思って」
こんなことを言うために電話したのではない。幼稚な頭と口を呪いたくなる。
「本当に痛くないのか。まさか、また高岡さんに」
新田の声が硬いものになる。緊張は春樹にも伝わり、不必要に大きな声で否定した。
「違うよ! 今日、心療内科にかかったんだ。大したことないって言われた。背中の傷も、乾かすだけでいいって。心配かけてごめんね」
電話機を通して安堵の吐息が聞こえた。パイプがきしむような音もする。ベッドに腰を下ろしたのかもしれない。
「よかった。あんなひどい傷、二度とつけてほしくない。だめだな、俺。こんなだから妹に冷やかされるんだ」
「こんなって」
うん、と言った新田の声が照れている。
「妹のやつ、俺に彼女ができたと思ってる。勉強会だって言うのに信じない。先週、お前の部屋に泊まったから」
正常で健康的な誤解は、春樹の胸に灯をともした。心地いい熱が広がり、体の強張りがほどけていく。
新田が恋をしているのだと思われている。相手が同性だと知ったら新田の家族は驚き、怒り、悲しむだろう。
それでも今は、新田は幸せをあふれさせている。幸せの端っこに春樹の存在があることが嬉しかった。
受診を勧めてくれたことへの感謝を告げようとしたら、妹とは違う声がした。母親のようだ。早くしなさい、という言葉が聞こえた。
「ごめん。集合時間が近いんだ。今度ゆっくり話そう」
「わかった。勉強会、頑張って」
息をとめて電話機を閉じた。体を包む熱を逃がしたくなくて膝を抱える。
『新田を逃がすな』
ずっとそばにいたいと願っても、新田には輝く未来がある。率先して自習に励むクラス委員だ。優秀な成績で高校を卒業し、望む大学に進学するだろう。
客との情交が増えないうちに新田とつながりたいなどと、あさましいことを考えた。男に抱かれる回数が少なければ汚れも少ないと、都合のいいことを思った。軽薄でばかな頭の持ち主と新田とでは、進む道も違う。
新田の人生は陽の光が似合うものであるべきだ。
リビングに入る太陽の帯がオレンジ色に変わる。膝にひたいを当てたとき、携帯電話を持ったままだと気づいた。
通話を終えた携帯電話が、手の中で急速に冷えていった。
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