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第一話・焔 第三章・4


 風呂から出たときにリビングの電話が鳴った。電話機の液晶画面に『カイシャケイタイ』とある。
 時刻は夜の十時になろうとしていた。
(腹を括れ。自分で選んだ道だ)
 受話器をとって名乗るが返事がない。両手で持った受話器の向こうから、途切れがちな稲見の声がした。
「っと……春樹くん。悪、いけど、明日の午後から……夕方まで、頼め、ない……かな」
 はいと答えるタイミングがつかめない。しきりと場所を変えながら話しているようだ。
「稲見さん? どうしたんですか、しゃべっちゃいけないとこにいるんですか?」
 あいまいな返事のあとは無言になった。こちらの呼びかけに応じないのに電話を切る気配はない。約一分後、稲見は早口でまくしたてた。
「用件だけ言うよ。明日の二時か三時くらいから数時間。お客様は塔崎様だ。ホテルは以前と同じところだが、僕は送れそうにない。代わりの者が迎えにいく」
 心臓が嫌な感じで跳ねた。早く電話を切りたがる稲見に対し、受話器を握りしめてたずねる。
「代わりって、誰ですか。社員さんですか?」
 粥川の送迎を想像して身の毛がよだつ。頼むから違うと言ってほしい。
「ハイヤーだよ。運転手の氏名は午前中に電話で伝える。免許証で本人か確認しなさい。帰りは僕が迎えにいく。制服に似た派手じゃない私服を着てくれると助かる。いいかな」
「は、はい」
 眉間にしわを寄せずにはいられなかった。
 塔崎は春樹を気に入っている客だが乱暴な男ではない。春樹は高い商品ではないと言われているし、ホテルも前と同じなら社が把握する部分も変わらないはずだ。
 商品の送迎に神経を尖らせていると感じるのは、気のせいだろうか。粥川や、他にもいるかもしれない送迎係の社員を使わないのも変だ。
「あのっ、稲見さ」
「申し訳ない。今から重要な会議なんだ。詳しいことは明日の帰りにしか話せないが、今後は僕が送迎できないときはハイヤーになる。ああそれと。近いうちに引越しするからね。今から荷物を整理しておきなさい」
「ひ、引越しって……稲見さん! もしもし! もしもしっ!」
 社用携帯電話は何度かけてもつながらなくなった。電源を切っている。夜の十時から会議があるのだろうか。特殊な業務内容だから、普通の会社員とは違うのかもしれない。社に電話しても留守番電話の声が流れるだけだった。
「どういうことなんだ。引越しって、なんで」
 稲見の声は急いでいたが硬くはなかった。粥川の名が出ないこともあり怖くはない。
 ソファに浅く腰かけた。放りっぱなしになっていた携帯電話に目がいく。
 『T』に発信したとして、何と切り出したらいい。相談相手を熟考しろと言われるのが落ちだ。明日になれば詳しい話が聞けるなら相談するのに値しない問題にも思える。
 引越しの理由が一番わからない。鞭で打たれたからと休む男娼には不相応な部屋を、引き払えということだろうか。
 考えることが苦手なため頭が痛くなってくる。携帯電話を開いたが、高岡の番号は表示できなかった。
 叱責が怖いのではない。土曜の夜に高岡の邪魔をしたくなかった。
「何でこんなこと思うんだ」
 心身を縛られそうな愚問を振り払うため、勢いよく立ち上がった。携帯電話を寝室にある充電ホルダーに置く。明日は塔崎の接待をしなければならない。早々に灯りを消してベッドに入る。
 今ごろ新田は担任の自宅で勉強しているだろうか。ひとつ部屋に集まり、級友と話に花を咲かせているだろうか。
 勉強会に行くと言った新田に、一瞬でも拗ねたようなことを言った。何か困れば高岡に電話しようとする。
 味噌っかすだと思われたくない。そんなことばかり思っていた。
 相手の時間を奪ったり、不安にさせたりする事実を見ないようにしていた。それが恥ずかしい。
 鼻の奥はつんとしなかったが、毛布を頭の上まで引き上げた。


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